執筆者:筒井 茂樹 氏
(元日本ブラジル中央協会常務理事)

 私が伊藤忠を退社後、10年間勤務し今も諮問委員を務める日伯農業開発(CAMPO)の役員総会に毎年出席して来ましたが、今年も3月に開催された総会に出席しました。今年はもう一つの目的があり、それは私も80歳を超え、日本とブラジルの往復が体力的に益々厳しくなり、今年が最後の訪伯になるかも知れないと思い、ブラジル勤務中公私にわたり助けて頂いたバテイスタさんにお会いすることでした。訪伯前にバテイスタさんの秘書に日本から電話でアポを申し込んだところ、バテイスタさんは是非会いたいと言っておられるが身体が弱っておられ15分間にして欲しいと返事がありました。

バテイスタさんのリオの自宅で、3月6日15時のアポでしたが、タクシーが路を迷い、30分遅刻でご自宅に到着し、自宅の玄関の呼び出し、マイクで遅れた事情を説明すると秘書がバテイスタさんは先程まで待っておられたが、疲れてベットで寝ておられると返事が有りました。私は遠路遥々日本からお会いする為やって来たので何としてもお会いしたいと粘ったところ、お付きの看護婦がバテイスタさんを起こし聞いて呉れました。バテイスタさんは是非会いたい意向なので、直ぐ上がって来て欲しいと言われ、エレベーターで3階の寝室に通されました。

バテイスタさんとはベッドに付したままの会話でした。身体は衰弱しておられましたが、頭脳は明晰、かつ好奇心も旺盛で、日本の政治、経済の現状、日本の友人である新日鉄の今井敬さんを含む何人かの名前を挙げお元気かと尋ねられました。又お前の親分の室伏さんが亡くなられたのは残念とも言っておられました。約束の15分が経過したので、秘書が終わりにしましょうと中に割って来られた時、突然バテイスタさんが、ところで今日は何の用件で来たのかと尋ねられたので私も80歳を超え、日本とブラジル間の長い旅は体力的に困難となり、これが最後の訪伯になるかも知れないと思い、何が何でもバテイスタさんにお会いしたいとお訪ねした次第と言ったところ、突然バテイスタさんの目から涙が流れ、「筒井,obrigado,obrigado,obrigado」と3回礼を言って貰いました。

バテイスタさんの涙を見たのは、ハンブルグ生まれのドイツ人Juta Fuhrken夫人の葬儀の時以来でした。6月18日、バテイスタさんの秘書から、ご逝去の悲報を受け、未だお元気でおられたバテイスタさんに私がお会いしてから3か月後にお亡くなりになられるとは私に取り大きな衝撃でした。同時に深い悲しみに包まれました、本当に、日伯はいや世界は大きな財産を失いました。

バテイスタさんは、1924年、ミナス州のNova Eraで出生され、1948年、パラナ州立大学の土木学部を卒業後、直ぐに7年前に設立されたばかりで殆ど実績も無かったVale do Rio Doceの最初の大学卒として入社され、1961年、36歳でバーレの社長に就任。1962年には、バーレの社長を兼務しながら当時のJoao Goulart大統領政権の鉱山動力大臣に就任されました。この時からバテイスタさんは、アメリカに依存する鉄鉱石の販売先の多角化を考え、第二のマーケットとして、戦後復興を急速に進める日本が既に頭の中に有ったようです。

その後、軍事クーデーターでJoao Goulart政権は崩壊し、バテイスタさんは、バーレの社長も大臣も退任を余儀なくされましが、この頃、パシフィックコンサルタントからリオに駐在しておられた稲田耕一氏と知り会い(後の伊藤忠に転職)、バテイスタさんは稲田氏を通じ、当時新日鉄の鉄鉱石購買担当役員をしておられた今井敬さん(後新日鉄社長、会長、経団連会長を歴任)を紹介されたのが、日本との関係の始まりだとバテイスタさんは良く言っておられました。一高、東大数学科出身の稲田氏は、今井さんの他にも東大の先輩、後輩の友人が多く、去る7月23-24日に開催された第21回日伯経済合同委員会でFIRJAN(リオデジャネイロ工業連盟)のCarlos Mariani副会頭のバテイスタさんへの追悼の辞で、バーレと日本の製鉄会社との最初の橋を架けたのは、バテイスタさんと稲田さんの出会いだと述べておられました。

日本製鉄連合は初めてバーレと年間500万トン、20年間の長契を結びましたが、この長契を可能にしたのは、日伯間の長距離輸送を可能にしたTubarao港の建設とその結果12万トンの貨物船の建造に対するバテイスタさんの強い情熱と日本のあらゆる面での協力の賜物であったとも、Carlos Marianiさんは、バテイスタさんの生前の言葉を引用して述べられておられました。

その後日本に多くの有力政治家、実業家の知己を得たバテイスタさんは、日本の製鉄会社と鉄鉱石のプロジェクト(アマゾンアルミ、カラジャス鉄鉱山開発、ツバロン製鉄)だけでなくセニブラ・パルプ等のプロジェクトにもバーレの社長として手を広げられました。又バーレとは直接関係は無いが、21世紀最大の成功プロジェクトと言われる日伯セラード農業開発(プロデセール)にも多大の支援を頂きました。1985年日本政府は、バテイスタさんの日伯交流に果たした貢献に対し、勲一等瑞宝章を授与しました。

一時1964-68年間民間企業MBR(後のCAEMI)の社長をされましたが、1968年には、Itabira Eisenerg GMPH(デユツセルドルフ)の役員、1974年には、Rio Doce international (ブラッセル)社長を経て、1979年―1986の8年間Joao Figueiredo大統領政権下でバーレの社長に返り咲かれたましたが、日本と検討されて来たナショナルプロジェクトの推進が期待されての返り咲きであったと言われています。しかし、バテイスタさんがバーレに復帰されて最初に着手されたのは、数年前に開発が始まったCarajas地区の鉄鉱山のGrand Carajas開発(28億ドル)計画の推進で有り、輸出の拡大でした。Carajas 鉱山はパラ州、ゴィヤス州、マラニオン州、シングーにまで拡大しました。1985年には、Carajas鉄道(892km)が開通し、マラニオン州のSao Luis港の建設により、大型船の運航が可能になり本格的な対日鉄鉱石輸出が実現しました。

O Estado紙は、バテイスタさんは、バーレとブラジルを世界最大の鉄鉱石産出、輸出国にした人物だと称え、Gazeta誌はTubarao港を建設し、大型船を就航させ、今日のバーレとブラジルを世界最大の鉄鋼石輸出国にした人物だとバテイスタさんを称えています。

バテイスタさんと私との出会いは、パシフィックコンサルタントから伊藤忠に転職された伊藤忠の大先輩稲田耕一さんから紹介され、歴代の伊藤忠の中南米総支配人がバテイスタさんとの関係を維持する中、私が総支配人席に1980年赴任直後、当時の中山総支配人(後の副社長)に連れられバテイスタさんを訪ねたのが最初ですが、その後、約40年間、その間3回の駐在で、通算28年間ブラジルに繰り返し駐在をしたため、途切れることなくバテイスタさんとの付き合いが続き、本当に可愛がって頂きました。最後に忘れられないエピソードを幾つか紹介します。これらのエピソードはバテイスタさんの日本への思いが詰まったものばかりです。

1. 2003年1月ルーラ大統領は大統領に就任するや、同年世界の20か国を訪問し、2004年にはインド、中国を訪問されました。日本は国賓として、熱心に中国訪問の前後に、日本訪問を要請していたにも拘わらず全くブラジル側から返事がないことに日本の経済界にも心配が広がり、当時の池田駐伯大使も大変心配しておられました。私は当時CAMPO社に勤務していましたが、私にもこの事態が理解出来ず、バテイスタさんに相談しました。バテイスタさんは、こんなに関係が深く友好関係にある日本に行かないのは理解できない。直ぐ日伯と中伯の関係をペーパーに纏めてくれ、一緒にルーラ大統領に会って説明しようと言って下さいました。早速、私は2008年に、ブラジル移民100周年を迎える150万人の日系移民、逆に日本に出稼ぎに行っている40万人のブラジル日系人がおり、日伯は血が繋がっているが、伯中には血の繋がりはない。中国がブラジルに取って大事な市場で有ることは否定しないが、誰が今日の中国向けに食料、資源の輸出を可能にしたのか。日本のセラード開発、カラジャス開発、アマゾンアルミ セニブラ・パルプなど、日本の協力が今日のブラジルを資源大国にしたからだ、又、日本の投資は90年代のブラジルの民営化に乗り遅れたが、今でも投資残は70億ドルを超えており、再び日本の投資が戻って来たので、投資残で世界3位以内に入るのはそう遠くない。一方伯中の貿易額は大きいが中国の対伯投資は今のところ殆ど無い。などペーパー2枚に纏めバテイスタさんと一緒にルーラ大統領にお会いしました。バテイスタさんが、私の作成したパーパーをベースに、如何に日伯関係が大事か、又、今日のブラジルが資源大国になったのは日本の官民の協力が有ったからだと凄い勢いで説明されたことを今でも覚えています。

ルーラ大統領も元々親日家であり、バテイスタさんの説明を聞くや、自分もこんなに友好関係にある日本に行かないのは全くおかしいとして、その場で官房長官を呼び、俺は中国訪問の前後どちらかで訪日するのでスケジュールを作り直せと命じられました。然し、翌日外務省のアジア大洋州局長のEdmundo Fujitaさん(日系最初のキャリアー外交官で韓国大使を歴任)がCAMPOの事務所に来られ、昨日バテイスタさんと2人でルーラ大統領に面談頂いたことを知り驚いた。今回ルーラ大統領が中国訪問の前後に訪日出来ないのは話が外交上デリケートな問題故、日本側に説明出来なかったが、実は、中国が強硬に訪中前後の訪日に反対しているからで、日伯の問題ではなく日中の問題であると説明されました。

2. 又、中国の話になりますが、バテイスタさんは、訪伯した中国の幹部が中国は同じBRICSの一員としてブラジルとは末長く友好関係を築きたい。然し日本は乳牛同様乳が出なくなれば日本とはおさらばだと言ったので、直ちに、自分は日本が大好きだと言ってやったらその中国幹部は黙ってしまったと言っておられました。(この話は当時の池田大使公邸でバテイスタさんと会食した時の話)

3. 二宮正人教授の発案もあり、日伯関係の一層の強化の為、バテイスタさんに日本経済新聞の(私の履歴書)に日伯関係にバテイスタさんが尽くして来られたこれまでの貢献を語って欲しいと思い、私が先ずバテイスタさんに相談したところ、自分のポルトガル語で書く文章を二宮さんが日本語に翻訳して呉れるなら書いても良い。自分の人生は、日伯関係の初めから今日のブラジルが資源大国の地位を日本の協力で築くことが出来たことまでを(私の履歴書)に書くことは、意味があるとして引き受けて頂きました。二宮さんとも相談しつつ、伊藤忠の故室伏社長を通じ経団連の今井会長にもこの発想を伝え、当時の米国日経の代表をしておられた現日本ブラジル中央協会の和田常務理事のご尽力も頂きましたが結局実現しませんでした。日伯関係者以外にバテイスタさんの知名度が低いと言う理由だと後で聞かされました。バテイスタさんには他の理由をつけ駄目で有ったことを告げましたところ少し残念がっておられましたが、二宮さんとお前の配慮には感謝すると言って頂きました。

4. バテイスタさんは、7人の子供さんがおられましたが、内お一人がパリで芸術活動をしておられました.その方がパリ留学中の日本人女子学生と来年結婚するかも知れない。その時はお前も結婚式に招待するので、スピーチをして欲しいと言われ心待ちにしていましたが、その後あの話は忘れて呉れと言われました。

5. バテイスタさんの還暦祝いを息子のアイク・バテイスタさんが、父親には内緒で企画し、バテイスタさんの親しい友人100人位の招待客に絞り、リオのクラブでサプライズの還暦祝いが催され、私も招待されました.記念に真赤なネクタイを持参しましたが、そのネクタイを気に入って頂いたと見えて、いつもしておられたことを覚えています。

6. 2006年頃エスピリット・サントのPedro Azulのバテイスタさんが持っておられた土地に別荘を建てられ、私も一度招待され訪問したことが有りますが、バテイスタさんはPedro Azulを大変気に入り、ここに自分の骨を埋めてもらうんだと言っておられました。因みにエスピリット・サントのPaulo Hartung州知事はバテイスタさんの死後、3日間の喪に州が服することを決められました。

最後に去る7月23,24日に経団連で開催された第21回日伯経済合同委員会で日伯のスピーカーが、スピーチの冒頭バテイスタさん無くして今日の日伯関係は無いと口ぐちに述べられた哀悼の言葉を聞いている間に、バテイスタさんは雲の上の人で有り、何故こんな雲の上の人に、私は可愛がられたのか信じ難く、バテイスタさんに幾ら感謝してもしきれない思いです。多分私はバテイスタさんにお会いした最後の日本人で有ったと思われ、その時、心から私の尊敬するバテイスタさんが、私の名前を呼び3回もobrigadoと言って頂き握手をして頂いたことは一生忘れることが出来ない想い出になりました。バテイスタさんの御冥福を衷心よりお祈りし私の追想文を終わらせて頂きます。