会報『ブラジル特報』 2010年11月号掲載
大部 一秋 (在サンパウロ総領事)
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昨年1月12日、総領事としてサンパウロに着任して以来1年9ヶ月余が経過しました。初めてのブラジル勤務ですが、この機会に、自分の経験や見聞などを踏まえて、随筆風に一文書かせていただきます。 ブラジルの大地 運命の出会い 私がサンパウロに到着した2009年初め、2008年のブラジル日本人移住100周年記念を祝う熱気と感動はまだ続いていました。全国的に高揚した雰囲気が私を包み込みました。この地での勤務に大きな希望が湧いてきました。 「移民のふるさと」ノロエステ 昨年9月6日、「移民のふるさと」といわれるノロエステ地方(サンパウロ市北西約400〜600kmに位置する地域)の中心、アラサツーバ市で開催された「ノロエステ連合日伯文化協会創立50周年記念式典」に出席し、数十に及ぶ日系団体の皆様とお会いした時から、この地方に眠る初期日本人移民の魂の息づかいを感じ始め、以来、今に至るまで、ノロエステ地方の移住地を何かに憑かれたように訪問してきました。 プロミッソン この「移民のふるさと」ノロエステ地方の中で、とりわけ私の心に強く残ったのは、プロミッソンとカフェランジャの平野植民地でした。双方とも、1908年(明治41年)の最初の笠戸丸移民と深い関係があり、開拓初期の生活や苦闘を彷彿とさせるものです。 今年の4月24日、初めてプロミッソンを訪問。水野龍の皇国植民会社の現地代理人として笠戸丸でブラジルに渡り、不調に終わり、一時日本に帰国、再び1917年(大正6年)に来伯した『移民の父』といわれる上塚周平(1876年生まれ、1935年逝去。熊本県出身。東京帝国大学法科卒)が主導し、翌18年から日本人の手により開拓を始めた、当時サンパウロ州の奥地原生林であった植民地。そこには、今、上塚周平記念公園があり、開拓10周年(1928年)記念塔が残っています。市内の墓地には、きれいに維持されている上塚周平のお墓。その墓前で、地元の日系人の皆様とともに、慰霊、献花、焼香、そして期せずして万歳三唱。爽やかな、そして温かな風が皆の心の中を吹き抜けたような気持ちになりました。 プロミッソンでは、上塚周平の墓守と言われる古老が14歳の時、隣のリンス市の病院で逝去間際の上塚周平から「後を宜しく頼む」といわれ、90歳の今に至るまで、上塚周平の精神を後生に残すべく奮闘されておられる。 「総領事さん!お願いがあります。どうか上塚周平先生の精神を後生に残すために協力してください!」 残り少ない人生を思い詰めるかのような真剣な眼差しで言われた言葉は、私の心を揺さぶり、魂を貫きました 平野植民地 翌4月25日、カフェランジャ市にある開拓当初の平野植民地を訪問。笠戸丸移民の通訳の一人として20数家族88人とともにグァタパラ(サンパウロ市の北約300km)のコーヒー農園に入り、リーダー的な存在として力量を発揮し、農園の副総支配人にまでなり成功した平野運平(東京外語大西語科卒、静岡県出身。1919年34歳で逝去)が、日本人の手による開拓地の必要性を説くサンパウロ初代総領事の松村貞雄の考えに共鳴、1915年(大正4年)グァタパラ移民等とともに乗り込んだ当時原生林であった平野植民地。翌16年初め頃2ヶ月で約60〜70人がマラリアで亡くなるなど悲劇の舞台となったところです(醍醐麻沙夫著『森の夢』に詳しい)。今は周囲が一面サトウキビ畑になっている一角、土だけで作物のない畑の中、2つの川の合流地点の近くに、高さ3メートル程の「開拓犠牲者之碑」(旧墓地)があり、地元の日系人の皆様と慰霊、献花、焼香。厳粛な雰囲気に包まれました。川の水が淀みなく静かに流れていました。そこから1km程離れた少し高いところにある新墓地(平野運平他のお墓が存在)でも慰霊、献花、焼香。最後に訪問した会館には、平野運平と初代サンパウロ総領事松村貞雄の大きな肖像画が飾られており、100年前の苦闘の開拓の歴史がこの2人から始まったことを誇りにしていることに感動しました。 原点の地、グァタパラ 今年2月11日および7月3日(入植祭)、家内とともに、原点の地、グァタパラ移住地を訪問しました。広い日本人墓地があり、その中に戦前の初期移民の方々の墓碑があります。両日とも、102年前を深く偲びつつ、この「拓魂」と刻まれた墓碑に、献花、焼香、慰霊。 最後に 2年弱の短い期間で、100年以上にわたる日本人のブラジルへの移住の歴史をどれだけ理解できたか分かりません。今、「拓魂」、「感動」そして「誇り」という言葉が、ブラジルへの日本人移住の歴史に相応しいと感じています。私は、「日本人のブラジル移住は、壮大なドラマであり、偉大な開拓の歴史である」と感じます。こうした歴史もブラジル社会の温かな人々との心の交流があったからこそ成り立ちえたものとも思います。日本とブラジルの友好関係が永遠に続くことを心から願っています。
◆ 【筆者注】文中、「移民」、「植民地」といった言葉がありますが、当地で使われている用語としてそのまま使いました。 |