連執筆者:川上 直久 氏
(日本ブラジル中央協会理事)
今でこそセニブラと言えばブラジル関係の業務経験ある方、ブラジル経済を研究している方は、日本の製紙業界と商社(伊藤忠)がブラジルでユーカリから製紙用パルプを一貫して製造している企業とすぐにご理解されると思いますが、当初ブラジル側よりユーカリ植林を製紙原料にしてはどうか、との話が持ち込まれた際のアイデアは、チップ事業の話であったことをご理解されておられる方はごく少数の限られた方だけだったと思います。まずはその辺りからお話しさせていただきます。
1966年にブラジル政府は、植林インセンティブ制度を定め、所得税として国に納めるべき税金の一部(25%まで)を納税者の選択によって植林事業にも投資できる途を開いたのです。この制度により植林熱はブラジル全土に広がり、ユーカリ類や松類などの植林が急速に増えることとなりました。
CVRD社もエスピリトサント州にRio Doce Madeiras SA(略称:DOCEMADE )社を、ミナスジェライス州にFlorestas Rio Doce SA(略称FRD)という植林子会社を作り、ユーカリ植林を開始しました。ブラジルでのユーカリ植林の目的は、製鉄用還元剤としての木炭製造、鉄道の枕木がほとんどでしたが、1950年代にサンパウロのスザーノ社が、製紙原料としてユーカリを使用、印刷・筆記用紙製造に成功を納め、一躍ブラジルの製紙原料として注目されるようになりました。
時同じころ日本の製紙業界は、通産省(当時)との共同調査で将来の製紙原料状況を試算した結果、製紙原料手当てを本格的に実施しないと原料不足を来たすとの結論に達したこともあり、「ブラジルにおける植林事業に非常に興味があるので共同で調査したい」との日本側意向をブラジル側窓口のCVRD社(現在のVALE社なるも本稿ではCVRDで統一)に伊藤忠リオ支店を通じて伝えました。その結果日本側とCVRD社が共同調査を実施、ブラジルでのユーカリ植林事業は、日本向けチップ事業として十分成り立つとの結論を得て、さらなる事業計画の策定を行いました。その結果;
- エスピリトサント州にて約40万Haの土地を手当てし、26万Haの植林を実施、チップ年産600万立方メートルを生産
- 600万立方メートルの半量をパルプに加工(パルプ1トン製造するにはチ ップ約4立方メートル必要のため、パルプ生産量は75万トンとなる)、残り300万立方メートルをチップのまま日本向けに輸出するということで大筋合意が出来たのです。
ところが、このチップ事業をさらに日伯間でスタディしてゆく過程で、CVRD側より、ミナスジェライス州の製鉄会社(Acesita社、Belgo Mineira社)が製鉄還元剤として木炭を製造する目的でユーカリを植林したが、効率の良いコークスに切り替えるため、ユーカリ植林が不要となった、このユーカリ+FRDのユーカリ植林材を使い、ミナスジェライス州にてユーカリ晒クラフトパルプ(ユーカリLBKPまたはEBKPと呼ばれる)を製造してはどうか、とのアイデアが出されたのです。CVRD は上記A社・B社のユーカリ材を安値で入手できることにかなりの自信を持っており、パルプ工場への原木供給はCVRD が一切責任を負うことを明言、日本側もCVRD と合同でミナスジェライス州パルプ事業のF/Sを行うことになった訳です。このスタディの結果;
- 日産750トン 340日/年稼働 年産25.5万トンの工場建設は十分フィージブルであるとの結論に達し、こちらのパルプ事業を先行させることで、日伯の思惑が一致し、1973年9月13日にパルプ会社が設立されました。
ミナスジェライス州のパルプ事業会社の正式名称はCelulose Nipo-Brasileira S.A. 略称:CENIBRA と決まりましたが、ここでひとつ面白い話があります。当時王子製紙の社長で,ブラジルにおけるチップ・パルプ事業の日本側調査・開発会社(Japan Brazil Paper & Pulp Resources Development Co.,Ltd 略称JBP) の社長も兼務されておられた田中文雄氏は「セニブラス」はどうかね、と言われました。どうも田中社長の頭にはペトロブラス、シデルブラス、イシブラス等の名前があったようです。このアイデアは、CVRDより公社なら考えられるが、セニブラには相応しくない、と説明され、結局セニブラで落ち着きました。
セニブラ設立直後第一次オイルショックが発生、コークス価格も急上昇したことから、A社・B社もCVRD社との原木供給契約を反故にせざるを得なくなり、一方CVRDは日本側(以降JBPと略す)とのCENIBRA設立時の絶対条件である原木供給責任を果たすため赤字覚悟で原木供給を続けざるを得なくなったのです。CVRDは、DOCEMADEの原木を自社鉄道を使い、セニブラ工場まで輸送するなどして原木供給責任を全うしようとかなり尽力してくれましたが、第三社の原木価格は値上がりするばかりで、1970年代末にはCVRDは、セニブラへの原木供給のため年間1,200万ドルもの赤字を負担せねばならない状況に陥り、CVRD内部にもJ/Vで一方の株主のみが巨大な損失を出し続けるようではJ/Vとして成り立たず長続き出来ないとの考えが徐々に浸透していったのです。
一方、その間、チップ事業の方はパルプ会社より1年遅れて1974年10月に設立されました。このチップ事業会社の正式社名はEmpreendimentos Florestais S.A.略称FLONIBRAと決まりました。正式社名の短縮ではありませんが、Florestas Nipo Braileira SA.=FLONIBRAという考えが関係者全員の頭にあったからです。
このフロニブラは土地の購入が中々上手く進まず、ES州から南バイア州にまで対象地域を広げても3年間で計16万Haしか購入できず、かつ折角購入した土地もcaatingaと呼ばれる半乾燥地帯で植林には適さない土地であったり、terras devolutasと呼ばれる所有権のはっきりしない土地が多くあり、前途多難が予想されました。加えてオイルショック以降の日本側状況も変わってきており、大規模植林はもはや不要ではとの考えも日本側に起こり始めたのです。このような状況下、1980年には日伯双方から調査団を出しフロニブラ事業見直しを行い、事業規模をチップ年産200万立方メートルとしましたが、新港建設等の見通しも立たず、フロニブラに対する関心は、急速に薄れていきました。その間もフロニブラに関わる人件費等の資金は、CVRDが短期のつなぎ融資で賄う状態でした。
その頃セニブラは1年遅れで工場が完成し試運転に入りましたが、操業当初から問題が頻発し、当面は先行するセニブラを軌道に乗せることが先決問題である、との認識も日伯双方で共有することになり、フロニブラは数奇な運命を辿ることになります。
詳細は次号で。