執筆者:高木 和博 氏
(ヤマトグループ代表)
1975年に、ブラジルへ単身移住してから、早くも43年が過ぎようとしている。その間、日本食や雑貨の輸入卸業、弁当のデリバリー、日本食の仕出し、ブラジルから日本への初めてのマンゴー輸出業務、ラーメン・カズの開業、エスパッソ・カズの開業と慌ただしくビジネスを展開してきた。失敗もあり、成功もあった。この度、日本ブラジル中央協会より、何か寄稿して欲しいという依頼を受けたので、思い切って執筆することにした。
「人生の方向を決定づけたブラジルでの実習経験」
1971年4月、学生時代にM.OSKの貨客船ブラジル丸で45日間をかけてブラジルの地を踏むことになった。 日系の貿易会社に実習生として働かせてもらうことになったのだ。
マンゴーの対日輸出解禁を報じるサンパウロ新聞(2005年2月5日付け)
この頃のブラジルはメジシ大統領の時代で、「Nao parar o brasil」〈ブラジルは立ち止まらない〉や「Ordem e Progresso」(進歩と秩序)の掛け声とともに経済成長率が10%を超える好景気に沸いていた。 その会社も若く、社長は40代の方で実に精力的、幹部社員、営業マンはほぼ一世で事務職は二世の人達で総勢30名くらいの規模だった。
Santos港より輸入したコンテナーが上がって来ると専務の方が上半身裸になり先頭に立って貨物を担いで倉庫に運び入れた。ほとんどの商品が前売りで売れていたためわずかに残った商品をVendedor(営業マン)がケンカするように奪い合っていた。彼らの1ヶ月の収入は歩合制の給与のため、当時の日本より数倍高かったと覚えている。法令で個人一人あたり、毎月300ドルの送金が認められており、日本から移住して来て2,3年の人が毎月のように仕送りしていた。当時は1ドル360円の時代なので、10万円以上になる。私自身も、事務を始め雑用係で最低給料だったが1ヶ月のペンション(下宿)代を払って夜の街へ遊びに行くお金にもそう不自由しなかった。
日本のスーパーのヤオハンが進出して来てPinheirosにオープンしたのもこの頃であった。 受注していた日本のカセットテープの入荷が遅れに遅れて、丁度12月のクリスマス・イブの前日に入荷し、翌日朝一番で同僚と3人で納品に行った、日本から来た若造の店長が大声を張り上げて、「お前ら何してんだ、早くここに並べろ」と怒鳴ったのにはびっくり、ビジネスのすざましさを感じた瞬間となった。お店の手伝いをしてお腹ペコペコになり、会社の近くの有名高級日本食店へ3人で行き、腹いっぱい食べて、払うお金がなく会社のツケにした、翌日だったか、社長から「お前らこんな高いもの食べて」とこっぴどく叱られた。
サンパウロの印象と言えば、結構寒い日があったこと、夜の霧、初めての地下鉄工事が開始されたこと、アクセルを目いっぱいふかして走る乗り合いバスの騒音、自家用車の鳴らすクラクションだった。 二世の男達からはずいぶん意地悪もされたが二世の女性にはモテモテだった。 会社の人達には本当に良くしてもらった。週末は必ずと言って良いくらい自宅に呼ばれて食事をご馳走になった。
会社では、商売のノウハウをおおかた学んだ、輸入の仕組み、原価計算の仕方、注文の取り方、法定伝票の発行、納品、集金等々。 日本へ帰る日が近くなったある日、実習生約10人ほどが集まり、文協のお偉いさん方に実習の報告会を行うことになった。自分はNota Fiscal(法定伝票)の切り方、IPI(工業税)、ICM(流通税)などを話したが、「君は短期間によく学んだ」とべた褒めされた。
日本へは1972年5月に同じくブラジル丸で帰国したが、22歳のブラジルでの1年間が自分の人生を決定づけた。何が何でも移住しよう、そして一旗上げようと。今から思えば利己主義の塊のような不純な動機だった。とは言え、戦前の多くの移住者が故郷に錦を飾るを夢見て渡った訳なので、移住に大義名分などあろうかと考えた。 帰国して復学したが、単位はほぼ取っていたので時間はあった。
「ラーメン和」の開店(2008年6月18日)を報じる日系紙
お世話になった社長が、近い将来、日本に買付けの会社を開けたいので、取り敢えず連絡事務所を作れと言う事で先輩の会社に机を借り電話を設置した。社長は言ってみれば、相当猜疑心が強い、と言うべきか仕事の鬼のような人だった。中堅の商社を介して様々な商品を輸入していたのだが、その輸出価格(FOB)にいつも文句をつけていた。私の仕事は直接メーカーを訪問したり、電話でメーカーに、裸のEX-GO(工場渡し)価格を問い合わせウラをとることだった。 ブラジル向けと言う事を告げると、既に某商社を介してブラジルには輸出しているというようなことで簡単には行かない。実際に輸出をしている商社にも、日本の窓口ということで、ずいぶん可愛がってもらっていたので、気がひけるというか後ろめたいような気持にもなった。 しかし実際にメーカー価格(EX-GO)に法外な輸出マージンを上乗せしている商品もあり、ブラジルの社長には重宝がられたものであった。
「ブラジルに単身移住を決意」
学校を卒業して24歳になった、一日も早くブラジルへ移住したいのに、社長は呼び寄せ手続きを一向にしてくれない。何故なら連絡事務所としての自分の役割が結構あり、日伸ばしになっていた。 業を煮やして、もう辞める、そして他社のルートで移住手続きを始めると申し出た。「分かった、それではお前の代わりの者をすぐ探せ」と言う事になり、すでに中堅の商社に就職していた同期の親友に、白羽の矢を立て毎日のように口説いた。ほぼ半年がかりで説得し、彼がしぶしぶ引き受けてくれた。 彼のお袋さんから「折角いい会社に就職し、お給料もいいのに、どこの馬の骨とも解らない会社にどうして行くのか」と恨み言まで言われた。
やっと目途が立ち移住事業団に手続きを始めた。移住の許可、永住権を取得し、いろいろと移住の準備を開始した。 その日が近づくにつれブラジルと言う外国へ移住するという事実を前に、心が揺れ動き始めた。今まで育った日本に別れを告げて、文化・伝統の違う
外国で本当に自分は頑張れるだろうか、日本に未練はないのか。不安と一種の怖さが、日ごとに押し迫って来た。母親は「一族郎党は近くに住むべし」と断念するように迫ってくる、親父は内心は計り知れないが、「お前の好きなようにしたらよい」と言う。 2年半前の約1年のブラジル実習は、往復切符を持ったリスク、責任を伴わない体験であり、いい面だけが記憶の底にある。移住して社会人として、自らの人生をかけて、本当にあの地でやっていけるのだろうか。
駄目だったら帰れば良いと言った選択肢は、我々の育った世代にはなかった、特に自分には。 大見えを切ってブラジル移住を決意したからには、おめおめとは引き返せない。全く格好が付かない。迷いに迷ったが、移住手続きを介して知り合い結婚を約束し、新天地での生活を語り合った彼女の手前もあり決意した。1975年1月25日、それまでの船での移住から、飛行機に替わり羽田空港よりDC8型機の機上の人となった。
「魔法瓶ビジネス」
それから43年あっという間に時間は流れた。さて、こんな調子で綴っていたらいつになっても終わらない、ここからは商売に重点を置いて記したい。 「事は時を持って肝要とする」 徳川家康。この会社の社長は新しいモノ、先見の明があり、当時日本で爆発的に売れだした魔法瓶(象印)を大量に輸入した。これは売れると思いきや全く売れない。半年たっても売れない。ついに見切り販売で在庫を処分した。ブラジルのようなおしなべて暑い国でお湯をポットで保管しておく習慣などなかったし、その必要もなかった。 ところが2年くらい後か、他社が輸入して、それこそ爆発的に売れだした。当時魔法瓶メーカーは
動物園トリオと言って「象印」「タイガー」「ピーコック」の3社、慌てた社長は象印に引き合いを出すも、ブラジルには、すでに代理店を置いた後だった。タイガー、ピーコックも同じように代理店を決めていた。先見の明はあったのだが取り扱う時期が早すぎていた。商売とは実に面白い。
「25 de Marco=3月25日通りでのビジネス」
サンパウロには、3月25日通りという卸商店が集まっている有名な通りがあり、会社の近くにあった。 とにかく人でごった返ししており、ブラジル各地の小売り店主などが仕入れに来る場所だ。 アングラ経済のメッカでもあり、今でも年に数回当局の手入れがあり違法販売(伝票なし=税金を払わない)で摘発、商品を没収している。日本から来たばかりで右も左もわからない私が販売に行った。Vendedorというモノを売ると言う営業に触手をそそられていたこともあった。始めて入ったお店で見本の商品を見せて、片言のポルトゲースで値段はいくら、支払い条件はかくかくと言ったのだが、通じたかどうかわからない。しかし、購買のブラジル人が、全部でいくつあるかと聞いてくれた。 貨物が到着したばかりでこれくらいの数量があると言ったら、全部買うと言うではないか。これには
たまげた。この25 de Marcoは、普通の営業マンはひっかけが多いとか、騙されるとか、とにかく敬遠していて誰も寄り付かないところで、素人の自分が大量注文を取った。ブラジルの商習慣で初めての客には、どこから仕入れているか、主だった納入先を尋ねる(Fonte de Informacao)という慣例があり聞いてみるとブラジルでも名の通った会社を5件を上げた。早速会社に戻り、上司に報告すると古株の営業マンを始め社長までもびっくり仰天。主だった納入先に支払いの遅延等の情報を聞くと、全社が優良な問屋との返事。すぐに注文の商品を納め、支払いも期日通り支払われて、それからも長く取引は続いた。「俺には商才がある」と思った瞬間だった。
「代金の回収は最大の問題」
商売を長くやって来ると、やはりトラブルも多々あった。モノを売って代金の回収が出来ない、これが一番のトラブル。先ほど述べたように信用調査(Fonte de Informacao)を行うのだが、商売は刻として流れており、今日は良くても明日は解らない。それでも騙されたという表現より、引っかかったということは数多くある。中国人(台湾、中国)は売り買いの時点では、実にしつこく最大限の譲歩を迫って来る、しかし一度取り決めるとピシャリと支払う。韓国人は割とあっさりと注文を出すが、支払いが大変ルーズという気がする(今までの経験上の話だが)。 騙されるのは、意外や我が同胞、騙すという魂胆ではなく、無いものは払えない!!ということか。同じ日本人だということで、ろくにウラを取ることなくモノを売り買いする、このあたりで一番トラブルを被った。そういう迷惑をかけたにも関わらず同じように平然と生きていけるのもブラジルの七不思議ではある。
「企業を立ち上げる」
移住した動機は一旗揚げる、自主独立が最大の課題だった。お世話になった会社に実習生として入った同じ時期に、永住して、この会社に働き始めた6歳年上の人と志を同じくした。日夜近い将来の独立を語り合い、計画を練った。1975年、正式に移住して2年後の1977年に念願の独立をして、二人で会社を立ち上げた。
売れなかったら返品という条件で日本人街で雑貨を売り出す。
輸入会社として旗揚げしたのだが、時にブラジルは極度の外貨不足で、資本金の額に見合った輸入枠しか輸入出来なかった。始めたばかりの小さな会社で年間の輸入枠はたったの5万ドルであった。商売をやるにしても、モノがなければ会社はなりたたない。しかも最大の商業の中心、サンパウロでは、先輩会社が幅を利かしており、なかなか参入できない。だがめげている訳には行かない。若かったし、情熱も体力、気力もあった。地方に目を向けた。先ほど述べた問屋街25 de Marcoで売れそうな商品を物色して、1個づつ見本を買い、それをカバンに詰めて地方行脚に乗り出した。長距離バスに乗ってブラジルの主要都市へ販売営業へ行った。結構売れた。サンパウロへ戻り、商品ごとに売れた数量を集計して見本を買った問屋へ行き、仕入れをした。ある程度まとまった数量を買うので、値引きも相当させて利幅を取ることが出来た。在庫を抱える必要はなく、資金に乏しい中で、会社も順調に伸びて行った。最初は南方面のポルトアレグレ、クリチーバ方面が中心だった。
当時NORDESTE(ブラジルの北東方面)はおおむね貧しくて商売も危ないと言うのが定説だった。とはいえFortaleza、Recife、Salvador、Vitoriaと大都市が数多くあり、大きな市場と考え思い切って販売旅行へ出た。どこへ行ってもよく売れた。してやったりと言う感じ。しかし商品を納めて期日通りにちゃんと支払ってくれるかが問題。一応先述のFonte de Informacao(納入先調査)をして、まあー大丈夫だろうと商品を送った。ほぼすべてのお客が期日通りに支払いをしてくれて万々歳。立ち上げた会社の大きな牽引力なった。商売はチャレンジ、常識とか風説にこだわるべきではないことを勉強した。
今でも印象的な一件、相手方には申し訳ないがポルトアレグレのプレゼント商品を扱っていた結構大きなお店の話。2か月に1回訪れるごとに大きな注文を出してくれた。そのオーナーがたまたまサンパウロへ出て来て、例の25 de Marcoの問屋街へ行きこっちが仕入れて売っている商品を見つけ、なんと値段が我々の半値だと猛烈に怒って電話してきたこと。これには参った。しかしこっちの販売価格にそれなりのお店の利益を上乗せして売っていた訳だから利益も多く、そうそう文句を言われる筋合いはないと開き直った。
花嫁移住してきた奥さんが、自分の営業用のアタッシュケースをたまたま開けて中をのぞいてビックリたまげたという話。貿易会社、輸入商社と表向きには言っていたが、カバンの中身は爪切り、オルゴール、色鉛筆 等々の雑貨品、これで将来が成り立つのか不安になったという。大きな志を持って、ブラジルという未来の大国に居を移したとはいえ、日々の営み生活は誠に地味、一歩一歩、弛まない歩みを積み重ねていく以外にサクセス・ストリーはないと言う事でしょうね。 (次回に続く)