長野 昌幸 氏
(三井住友海上ブラジル㈱取締役社長 兼 CEO)
ブラジル事業の開始
当社の進出は、1960 年代からのブラジル高度成長期に当地で新規投資・事業拡大を進めていた日系企業のお客さまに、本邦と同質の損害保険サービスを提供することを目的として、1965 年創業のコンコルディア社(コチア産業組合傘下の保険会社)へ 1972 年に出資したことから始まった。 以後、おおよそ半世紀、沈まずも漂うブラジルの政治・経済・社会に翻弄されつつも、開業のミッションを守り続けている。
ハイパーインフレ時代
1970 年代に発生した 2 度の石油ショック(当時のブラジルは国内消費分の原油の大宗を輸入に頼っていた)と世界的な高金利をきっかけに、ブラジルがハイパーインフレに陥った 1980 年~ 1990 年代前半は、日系企業のお客さま、そして当社のような損害保険業においても試練の時であった。
損害保険は保険料を頂いて、将来の事故時に復元費用をお支払いする仕組だが、ハイパーインフレ下では、お客さまのリスクに見合った保険料の算出に加え、想定されるインフレの影響を加味するための修正計算が事細かに必要となる。このような不確定性及びコストを、ハイパーインフレを実感できない本社からはなかなか理解してもらえなかったようだ。
この時期、多くの日系企業がブラジルを撤退したと言われる。
コチア産業組合のモラトリアム
1993 年 5 月、コチア産業組合がモラトリアム(負債支払いの全面停止)を発した。当社が資本参加していたコンコルディア社の主要な取引は、日系企業のお客さまの事業とブラジル各地に広がるコチア産業組合関連の財物、物流に支えられていたため、影響は甚大であった。コチア産業組合の資産も凍結されてしまった。かかる状況にあって、ブラジルで事業を展開する日系企業のお客さまの負託に応えるため、三井
住友海上(当時、三井海上)による、コンコルディア社の完全子会社化を検討し始めた。当時のブラジルは外資法により外国資本の参入を厳しく制限していたため、保険業の監督庁があるリオデジャネイロに日参して交渉を進め、1995 年、子会社化を完了し、改めて日系企業のお客さまの事業に寄り添うというミッションを堅持する体制を整えた。
新しき酒を新しき革袋に
2001 年、日本で三井海上と住友海上が統合して三井住友海上が誕生したことから、ブラジル現地法人の社名も現在のMitsui Sumitomo Seguros S/A(三井住友海上ブラジル)に改めた。折しもブラジルは、2000 年前後からの中国市場の需要増を背景とした国際商品相場の上昇、資源輸出の拡大により、堅調に経済成長を遂げており、当時の社内には「新しき酒を新しき革袋に」という雰囲気があふれた。日系企業のお客さまの事業も拡大基調にあり、新規進出企業数も増加傾向に入った。
2008 年にはブラジルの再保険市場が部分的に自由化され(従来は国営再保険会社の独占)、以前は基本的にブラジル現地法人に置いた限られた資本の範囲でしか引き受けることのできなかったリスクを、本社を含む海外再保険者からのキャパシティー(保険の引受能力)も併用して引き受けられるように体制を強化した。
BRICS、リオオリンピック・パラリンピック
四大新興国の一角として経済発展が期待されたブラジルであったが、経済が好調な時も産業政策・制度改革への取り組みが遅れ、製造業で一流の競争力を育成できなかった。このため、資源価格が下落基調に転じた 2014 年後半から経済は停滞し始め、再び日系企業のお客さまの業容も悪化した。
このように暗雲立ち込めた中ではあったが、2016 年のリオオリンピックでは当社女子柔道部の中村選手と近藤選手がともに銅メダルを、またパラリンピックでは当社に在籍する道下選手が女子マラソンで銀メダルを獲得した。この際にはブラジル各地から数多くの日系企業のお客さま、日系ブローカー、日系人そしてブラジル人の当社ファン方が応援にかけつけて下さった。
次代への挑戦
保険業界は変革期を迎えており、時間差こそあれブラジルも例外ではない。次世代モビリティ社会の到来、ビッグデータ周辺の新しいリスクの発現等の環境変化を見据え、業務のオンライン化や AIの活用等、ディジタリゼーションへの対応を急いでいる。
現在の当社は、企業向けの保険から個人向けの保険まで、多様な商品をブラジル全土で販売しており、総売り上げに占める日系企業のお客さまとの取引の割合は1割弱である。しかしながら、「日系企業のお客さまへの高度の損害保険サービスの提供」という開業の DNA は、常に当社の体軸に宿っている。