2019年10月
執筆者:岩尾 陽 氏
日本ブラジル中央協会 理事

「フランシスコ・ローマ法皇へ御前演奏」

オーケストラはその8年に及ぶ地道な活動が認められ、また前述のようにフランシス法皇がまだアルゼンチンで大司教の頃からのご縁もあり、2014年10月31日にバチカンで法皇に献奏して欲しいという招待を受けました。カトリック信者の多いブラジルでは、我々日本人が想像する以上にローマ法皇というのは偉大な尊敬の対象です。まして現法皇は南米出身なのでなおさら親近感があるようですが、その法皇に招かれた44名のオルケストラの少年少女達やその父兄、関係者の喜びは如何ばかりでしょうか。

 

殆どの少年少女達は海外旅行が初めてで、中には飛行機に乗るのも初めての子も沢山いました。そんな彼等にとって、この時のイタリアへの演奏旅行は一生の思い出になることでしょう。また関係者として招待された私や文京楽器の茶木さん、堀さんも、一緒にコンサートに列席できました。我々にとっても、おそらく二度とない貴重な体験でした。オーケストラへの招待ソリストとして参加して下さった久保陽子さんは、奄美大島で4代続くカトリックの家で育ったことから、カトリック教会で演奏することに特別な意味を感じていました。文京楽器がブラジルの少年オーケストラと一緒にローマ法皇に招かれていることを知り、是非自分もバチカンで演奏したいという話になりました。そして、このエッセイの2回目に書いた通り、我々はローマで落ち合いました。演奏当日はサンピエトロ広場から、大聖堂の横にある入口を通って演奏会場に入りました。入口近辺で入場を待っている間も、ブラジルの大手放送局であるグローボの取材陣たちが撮影機材などを抱えてオーケストラ関係者にインタビューを試みていました。後で聞きましたが、この時の様子はブラジルのTVニュースでも大きく取り上げられたようです。さてサンピエトロ大聖堂には沢山の礼拝堂や講堂があるようで、私はその中の一つ、広大な「法皇パウロ6世」と名付けられた講堂に入りました。

 

とにかく巨大なホールだったのは覚えています。パッと見ただけでも5千人位は収容できそうな感じでした。正面に大きなステージ(説教壇?)があり、私達聴衆はそのステージのすぐ前に集まりました。やがてフランシスコ法皇と数名の神父さんたちが正面に着座されてコンサートが始まりました。当日の演奏会は限られた人達だけが招待されていましたが、聴衆は600名程だったと思います。巨大ホールの一角だけを使った、とても小さな規模のコンサートでしたが、その分、法皇がとても近くに座られていましたから、親近感、特別感を強く感じました。演奏曲目は2回目のエッセイに書いた通り、法皇が大好きと聞いていたバッハの作品でしたが、その演奏終了後、法皇が一段低いステージに居たオーケストラのところまで足を運ばれました。写真のように、少年たちの間に入って演奏を労って頂きました。メンバーの興奮と感動が頂点に達しました。そこでオーケストラは目の前に立つ法皇に、彼の母国であるアルゼンチンのタンゴをアレンジした曲の演奏を捧げました。サンピエトロ大聖堂でアルゼンチンの音楽が演奏された、これもまた素晴らしい瞬間でした。

 

さて、翌日は土曜日だったので、私達日本チームは改めて、というより初めてバチカン近辺を観光しました。サンピエトロ広場に向かう通路で観光客向けのお土産屋さんを冷やかしたりしつつ広場に到着すると、時刻はちょうど11時50分でした。週末の為でしょうか、大聖堂を見上げる広場は一杯の人だかりでした。皆さん何かをずっと待っているようなので、近くにいた観光客グループの人に「今から何かあるんですか?」と訊いてみました。すると、12時ちょうどにフランシスコ法皇が広場に集まっている人々に向かって挨拶するということです。大聖堂を取り囲む建物の少し上の窓から、何か絨毯のようなものが垂れ下がっていました。そこに法皇が現れてお話されるのだそうです。その窓というのが、遥か遠くで双眼鏡が必要な位でしたが、やがて法皇がその窓辺に現れると広場中の人々の間にざわめきと大喝采、そしてすぐに荘厳な静寂が訪れました。集まっている人々は、おそらく世界中からカトリックの総本山であるバチカンに集まった熱心なカトリック信者の方たちでしょう。私たちの周りの多くの人々が法皇のお話を聞き涙ぐんでいました。普段から信仰薄く、恥多き人生を送ってきた私は、彼らの純粋で曇りなき信仰心に対して心底羨ましいと思ったことでした。そして彼らは隣にいる日本人が昨日、法皇のすぐ側で1時間程を共有していたなどとは夢にも思わなかったでしょうね。ちょっぴり彼らに自慢したいような気分でした。

 

「現代の名工による2本のバイオリンが大聖堂で鳴った。」

 

ソリスト久保陽子さんは長い間、ストラディバリウスやグァルネリのバイオリンを使用していましたが、バチカンに行く少し前からは堀さんが作ったバイオリンを使い始めていました。また、このコンサートのために堀さんは、もう1本バイオリンを製作し、オーケストラの第1バイオリン奏者にそれを寄贈しました。ですから法皇の前では、写真のように、堀さんが作った2本のバイオリンが鳴り響いた訳で、堀さんはバイオリン製作者として冥利に尽きたと思います。

 

日本の有名バイオリニストの一人に、19歳で東京交響楽団のコンサートマスターに就任し、その後NHK交響楽団のコンサートマスターなど華麗な経歴を持つ徳永二男さんという方がおられます。すでに半世紀以上の音楽家人生を歩むバイオリン界の重鎮です。その徳永さんが2019年1月31日から5日間連続で、日本経済新聞の「心の玉手箱」というコラムに、全5回のエッセイを書いています。その第5回目に「往年の名器と違う理想の味わい」とうタイトルで堀さんのバイオリンについて述べていますので、ここにその文章の一部をお借りしたいと思います。

「バイオリンは古い楽器ほど品質が良くて高価だと多くの人が思っているだろうが、必ずしもそうではない。確かに一般の方でもご存じのストラディバリウスとグァルネリ・デル・ジェスの2つだけは別格と言える存在だが、現代の楽器職人が制作したバイオリンにも優れたものは多い。(中略) 日本国内にもバイオリン制作の名人といえる堀酉基(ほりゆうき)さんがいる。昨年末、堀さんに3年前に依頼したバイオリンがちょうど完成したのだが、自分が求めている理想の音に応えた素晴らしい楽器だった。往年の名器とはまた違った味わいのある音色だ。(後略)」と、堀さんのバイオリンに賛辞を送っています。まだまだ若い堀さんですが、これから彼の作ったバイオリンの価値はじわじわと上がって行くことでしょうね。このエッセイの本題ではないですが、お金に余裕のある方は今のうちに堀さんのバイオリンを購入しておけば、100年、200年後には大変な文化的かつ資産的価値が上がって、子々孫々からは物を見る目があった素敵なお爺ちゃん、お婆ちゃんだったと尊敬されることでしょう。その頃まで今の地球温暖化を始めとした環境汚染や、国家の覇権争いの道具となっている核兵器による汚染で、人類がこの地球から消えてしまわないことを切に祈っていますが。(笑)

 

「ローマに戻り、DVDとCDの製作」

 

バチカンでのコンサートはオーケストラの関係者にとっては忘れられない素晴らしい出来事でした。しかし残念ながら、そして当たり前のことですが大聖堂内に大掛かりな機材を持ち込んで、その時の様子を録音、録画することは出来ませんでした。ですから関係者の間で、もう一度ローマに戻ってバチカンではなく、市内の教会を借り切ってコンサートを開き、その様子をDVDにしようと言う話が浮かんできました。勿論、教会のコンサートはきっと素敵な映像は撮れますが、音質に関しては多くを期待でいないので、別途しっかりと時間を掛けて音にこだわったCDも作りましょうということになりました。

 

Easier said than done!そりゃ言うほど簡単じゃないよ!また大勢の子供たちをブラジルからイタリアまで連れて行き、最低1週間は滞在し、イタリアで映像や音響の専門家を雇い、大量の機材を持ち込んで出来る限り由緒のある教会を借り切るってか?飛行機代、ホテル代、制作費その他諸々の費用はどうすんの、誰が払うの?などなど色々おありでしょうが、NIKEのタイガー・ウッズも言ってますJust do it!  (日本語:Yarukyanaidaro!).。てな訳で、ブラジル側では旅行に関わる費用を、そして日本側では制作にかかわる費用を分担することでLet‘s do it!となりました。制作費負担についても文京楽器さんの大きな協力を得ることが出来ました。CD/DVDは1万キットを製作し、5000キットをバチカンに寄贈、残りの半分つまり2500枚はオーケストラに、2500枚は日本に分配することで作業が始まりました。

 

まず問題になったのが少なくとも3日ほど、ローマ市内の由緒ある教会を借り切ることでした。当時のヨーロッパでは各地で政治的なテロが頻発しておりましたので、教会を借り切ってその前に録画機材を積んだ大型バスを2、3台ずっと駐車させておくこと自体がテロと疑われるという理由で、教会探しは難航しましたが、イタリアのカトリック教会に顔の聴くローマ在住のブラジル人聖職者の尽力もあり、なんとかローマ市内の4世紀に建立された大変に由緒の正しいSanti Silvestro e Martino ai Monti聖堂を借り切ることが出来ました。写真にあるように、沢山の大理石で出来た石柱に支えられた、荘厳かつとても美しい教会でした。さて撮影や録音クルーもローマでは最高クラスのエキスパート集団を雇うことが出来、2015年10月5日に教会内で一般客を招いたコンサートを開き、その様子をDVDに録画、録音する事が出来ました。優秀な音響と映像のチームのお陰で大変に美しいDVDが完成しました。

このDVDは映像的には本当に美しく出来上がりましたが、音質的には実際のコンサートの音をそのまま録音したので、いわゆるワンテイク(一発取り)です。当然ながら細かい音の調整が出来ませんでしたので、翌日からは場所をローマ市内にあるカトリックの神学校の講堂を借りて、3日間を掛けてじっくりとCD向けの録音作業に取り掛かりました。ここでは、演奏者、つまりオーケストラと録音技術者の双方が納得の行くまで、何度も何度も演奏を繰り返しました。私も含め一般の方々には、どのテイクも同じように聴こえる時もありますが、さすがに音楽家とプロの録音技師の耳は確かで、音の高低や長短のわずかな違いにも妥協なく、和気あいあいの中にも緊張感のある録音作業が進みました。ですからCDを聴いて頂くと判りますが、大変に質の高いバッハの音楽が録音できたと思います。

3日間朝から晩までずっと演奏と録音作業を続け、さすがに最後のテイクが終わった時には、全員が拍手とハグで録音の完成を労い合いました。後になって、「ブラジルの少年オーケストラの演奏です」と断ってCDを差し上げた多くの人達から、まるでプロのオーケストラの演奏のようだとお褒めの言葉を頂きました。勿論、ソリストとして久保陽子さんという名手がいたことも大きな理由ですが、少年達も3日間、本当に録音の為の演奏に集中してくれた賜物と感謝していますし、私自身も、おそらく二度と経験できないであろうその作業にずっと立会うことが出来た満足感、充実感に包まれたことでした。