Inconfidência Mineira

2019年10月
執筆者:田所 清克 氏
(ブラジル民族文化研究センター主幹)

ノッサ・セニョーラ・ド・カルモ(Nossa Senhora do Carmo)教会から[久保平亮氏提供]

金鉱で華開いた「バロック・ミネイロ」の至宝

 

ペルナンブーコ州とバイーア州を中心に150年に亘ってポルトガル系アメリカでもっとも繁栄した北東部の砂糖産業。このサトウキビ・サイクルは、18世紀の初頭に発現するが、マリアーナ、ディアマンティーナ、サバラーと共にヴィラ・リッカ(現在のオウロ・プレト)を舞台とする金・ダイヤモンド・サイクル(ciclo do ouro e dos diamantes)産業に取って代わられた。それというのも、1693年から1695年の間、奥地探検隊が必死に探し求めた結果、ドーセ川およびモルテス川の渓谷、今日のミナス・ジェライス州のサバラーやカエテースに当たる地域において、金とダイヤモンドが発見されたからである。ちなみに、オウロ・プレト(=黒い黄金)と称されるのは、探検隊員の一人の黒人が砂金を発見したことに由来する。独立後、1897年にべロ・オリゾンテに譲渡するまで、州都オウロ・プレトと呼ばれるようになりミナス・ジェライス地方の中心都市となっていた。

 

ミナスの金鉱脈は、冒険児バンデイランテによってかなり古い地質時代の地層で発見された。すると、広大なサンパウロのカピタニアの一部をなすこの地域にゴールドラッシュを誘発した。そして、金経済は中南部の空間への人的移動の結果、都市を生むことになる。と同時に、金の産出地域と金を積みだす“ミナスの口”と呼ばれるリオの港の間は道路によって連結されるようになる。その背景には、ポルトガル官憲の金の密貿易を防ぐ狙いもあったようだ。

地名が物語るように、まさしくヴィラ・リッカは金で沸くもっとも繁栄したコロニアル都市に変貌し、隆盛を誇った。経済的繁栄とポルトガル人および奴隷の流入は結果として、サルヴァドールにあったブラジルの副王国を1763年、リオに遷移させることになった。1750年代は金の採掘量が年間14トンにまで達する絶頂期もあったが、“金サイクル”は1世紀も続かなかった。金自体は19世紀の第二半期まで採掘され続けたものの、その経済的な重要性はもはや無に等しかった。

 

ともあれ、産み出された金によってミナスの金鉱地域には大邸宅や豪壮な教会が建立されたばかりか、都市生活をベースにした新たな社会が出現し、行政や商業に携わる中間層も台頭した。そして、金のもたらす影響はサルヴァドール、さらにはポルトガルにまで及んだと言われている。そうしたゴールドラッシュの中でミナス特有のバロック(barroco)と呼ばれる芸術様式が華開いた。それは、絵画や音楽、文学だけでなく、教会建築の装飾、彫刻などにも及んだ。そのため、この時期の芸術およびブラジル史の一端を学ぶには、独立運動の舞台となった旧都ミナスの史跡を訪ねる必要があるだろう。

 

そもそもバロックとは、通説ではポルトガル語出自の言葉で「歪んだ(不整形の)真珠」を意味する。ヨーロッパで一世を風靡した芸術・文化様式で、文芸復興の古典主義に対する反動として発現した。そしてそれは、17世紀に席巻していた西洋文化の精神的な危機や、実存的なものに対する、その時代に生きた人々の懐疑的な苦悩や葛藤を刻印するものでもあった。そのために芸術、わけても文学は、相対する2つの概念やメンタリティー、例えば中世の神中心主義と、ルネサンスで提示された人間中心主義と合理主義との融合・和解を標榜した。その意味ではバロックは、相反するもの、二元論(二重性)、対照的なものの芸術とも言える。

 

ブラジルのバロック芸術は、スペインおよびポルトガルの建築様式の影響を受けた、17世紀のイエズス会士の手になる教会建築を濫觴とする。そして18世紀になると多くの場合、建築はむろん、彫刻、絵画、調度などが一体となって、ロココ様式にみられない形状の豪華さ、過剰かつ雄大壮大にして光の明暗を劇的に打ち出したものになった。絵画のジャンルでは流麗な色彩表現と劇的な画面構成にその真骨頂があり、凝った装飾の多用などに特色を持つ。この様式はまさにミナスの地において頂点を極め、宗教改革に対するカトリックの反動を芸術的な手段を介して具現化するものであった。

 

起伏の激しい石畳の坂道に特徴のあるオウロ・プレトは街全体が世界遺産であり、ブラジルの“金サイクル”時代のもっとも重要な家並みが集中している。その一例は、造幣局の機能も兼ねたカーザ・ドス・コントスで、1782年から1784年の間に建造され、もっとも美しいコロニアル建築の一つとして知られている。ここは後述するミナスの陰謀者たちが留置・監禁されたところでもある。サルヴァドールのサン・フランシスコ教会に次ぐ金の使用で内部が装飾されたノッサ・セニョーラ・ド・ピラール教会は、13の教会と9つの礼拝堂のあるオウロ・プレトの中でもひときわ精彩を放つ。加えて、祭壇の上に飛翔する多数の天使は圧巻で、ミナスのバロックの精髄を目の当たりにできる。

 

限られた紙幅の中で、ミナスのバロックの全容について言及するのは不可能に近いが、もう一例挙げるとすれば、アレイジャジーニョ(不具者)と称されるアントーニオ・フラ

ンシスコ・リズボアの手になる作品群だろう。約60年間に亘って彫刻家、石工、建築家として活躍し、植民地時代のもっとも卓越した造形作家と評されている。らい病と壊血病を煩い両手と両足を失った彼は、自分の限界という壮絶な闘いのなかで信仰心に燃えながら、腕の部分にノミと鎚を巻きつけて彫刻したという。その最高傑作の一つに、コンゴーニャス・ド・カンポにあるボン・ジェズス・デ・マトジーニョス教会堂を飾る「12人の預言者たち」と66人から成る「キリスト受難の像」がある。あまたある彼の傑作のなかで、チラデンテス博物館に収蔵されている木彫の「サン・ジョルジェ像」もその一つだろう。

 

19世紀の初頭、名匠アレイジャジーニョの手がけた作品群、わけても教会聖壇の美装に接したフランスの博物学者であるエティエンヌ・ジョフロワ・サンチレールは、ことのほか感動したようである。同じくフランスの歴史学者であるジェルマン・バザンも「アメリカ大陸のミケランジェロ」と彼を称して褒め称えている。装飾宗教建築物の世界でも彼は、18世紀のもっとも表現力豊かな画家であるマヌエル・ダ・コスタ・アタイーデとの協働で、ブラジルの要素が調和した作品も残している。その一方で、バロックの香り高いマヌエル・アタイーデの絵画やロボ・デ・メスキッタの楽譜なども文化遺産として今も残っている。こうしてみるかぎりにおいても、ミナスは文化遺産の宝庫である。17、18世紀のブラジル史、ことに芸術の一端を学ぼうとする者にとっては、一度は訪ねるべきところかもしれない。

サン・フランシスコ・デ・アシス(São Francisco de Assis)教会

 

植民地エリートを「ミナスの陰謀」へと駆り立てたもの

 

評論家のヴィアーナ・モウグに言わせれば、ミナスを語るうえで地理的状況は黙過しえないらしい。その上で、ミナスに顕在する頑固なまでの封建主義や地域主義の精神・文化風土の特色を、山で囲まれた盆地の地理的状況と結びつけて論じている。果たしてそうした地理的状況と特有の精神・文化風土が、ここで論じるブラジルの政治的独立への反乱に駆り立てた土壌になったのであろうか。周知のように、独立は1822年に達成されるのであるが、ポルトガル王室の到来(1808年)前後に限ってみても、いくつかの植民地本国もしくは帝政に対する反乱や暴動が地域レベルとはいえ出来している。

 

この種のポルトガルに対する反乱の類は、植民地時代を通観すると枚挙にいとまがない。16世紀にすでに発現した、ブラジル生まれの者が表明したナショナリズムの色濃い土地に根付いた土着的な国民意識に基づいたナティヴィズモ(nativismo)運動、ペルナンブーコの旧農園主とポルトガル人商人との間の争乱とも解される、ペルナンブーコの「マスカッテの乱」(1710年)、ミナスの産金への重税に対する「フィリッペ・ドス・サントス(=ヴィラ・リッカ)の乱」(1720年)などはそのほんの一例である。その最後のヴィラ・リッカの乱の場合は、抗議の先頭に立っていたフィリッペ・ドス・サントスは叛徒として逮捕された挙句、処刑された。ここで論じる「ミナスの陰謀」は密告によって未遂に終わり、首謀者は同じように極刑に処される。「ミナスの陰謀」が独立に向けた象徴的事件であったとすれば、「ヴィラ・リッカの乱」はその序曲をなすものであったように思われる。何故なら、「ヴィラ・リッカの乱」以来、社会上昇もままならないミナスのヴィラ・リッカの住民の間には、植民地本国に対する反感と反乱の気運が高まり、醸成されていたからである。

 

「ミナスの陰謀」は、[少尉(アルフェーレス)]ジョアキン・ジョゼー・ダ・シルヴァ・シャビエルを首謀とする白人エリート層や文人などの知識人よって企てられた陰謀である。ただし、この陰謀のなかには一人のムラトが参画している。ちなみに、そのシルヴァ・シャビエルは歯科医の助手をしていた時期もあり、抜歯が上手であったことから“チラデンテス”(Tiradentes[tirar=抜く、dentes=歯])の綽名を付けられていた。

 

ところで、植民地本国にとっては重大な脅威となった1789年に出来した「ミナスの陰謀」は、植民史上最大の事件の一つであることは疑いない。しかしながら、この事件を巡っては、最終的にはリオ・ミナス街道の警備班長として少尉の地位まで上り詰め、最後にはその職を解かれる被告人たるチラデンテスに対する尋問調書(Autos de Devassa)以外に史料があまりなかった。そうした状況にもかかわらず、特定の視座からの研究がいくつか存在するのも事実である。例えばそれは、陰謀に参画したグループと彼らの思想の重要性に着目して、さまざまな点に焦点を定めながら陰謀の意味を探ろうとしたものである。その一方で、驚くべきは、「ミナスの陰謀」を単に理想主義的な企てに過ぎないとみなし、その持つ重要性を否定する見解の研究もみられることである。

 

しかしながら、歴史家マリア・エフィジェニアの言説に従えば、陰謀の重要性の有無は別にして、それらの研究はおおむね3つに集約される。一つは、独立を希求する知識層による運動とする見方。もう一つは、金鉱が衰凋する過程でありながら過重な課税などポルトガルの暴政と抑圧は依然として続き、それに反発して引き起こされた事件と捉える解釈。さらにもう一つは、借金の徴収で負債者になった地方有力者集団による運動とする見方。研究者たちによって解釈が異なるとはいえ、「ミナスの陰謀」が植民地本国の商業面の独占支配のみならず、王権による五分の一税に加えて、一種の人頭税に当たる「デラーマ」(derrama)[金に対する五分の一税の不足分の強制徴収]を布告することへの、地元の知識層およびエリート層による本国支配に反乱を企てるものであったことは否めない事実である。が、極秘裡に進められたその反乱も信頼していた同志の一人ジョアキン・シルヴェーリオ・ドス・レイスが1789年3月に密告したことにより、水泡に帰した。その結果、捕縄されて2年にも及ぶ裁判の後にチラデンテスは、リオのサン・ドミンゴ広場で絞首刑となり、しかも、八つ裂きにされて街頭に晒されたのである。

チラデンテス広場(Praça Tiradentes) [久保平亮氏提供]

愛国の志士たちが米国憲法を手本にした共和制を希求し、独立に向けて立ち上がったその背景と動機には、モンテスキューなどのフランスの啓蒙思想家の影響と合わせて、併合されていたスペインからのポルトガルの再独立(1640年)、米国の独立(1776年)などが強く作用した。というのも、陰謀参画者のなかにはポルトガルやフランスに遊学した者もおり、彼らが米国の独立から感化・触発されたことは想像に難くない。参画者の一人であるジョゼー・ジョアキン・ダ・マイアに至っては、パリに駐在していた米国大使で後の第3代米国大統領となるトーマス・ジェファーソンとも接触・交流しながら、ポルトガルの圧政からの解放に向けた協力の要請さえしている。

 

時代は下って1822年、イピランガの丘で雄叫びをあげた摂政王子のドン・ペドロの独立の動機が、チラデンテスが主導した「ミナスの陰謀」にあったことは言を俟たない。その意味において、爾来、国民意識の高揚に目覚めたブラジル人が英雄として犠牲になった首謀者チラデンテスを今も崇拝し、絞首刑の判決を受け処刑された4月21日を「ミナスの陰謀の日」と「チラデンテスの日」と祭日にして祝うのも合点が行く。