本田健治
(㈱ラティーナ代表取締役)
1952年月刊「中南米音楽」創刊
月刊「中南米音楽」は、NHK ラジオの解説者や、熱血漢の学生が集まって、1952 年に発刊した音楽雑誌だ。当初は主にアルゼンチン・タンゴの愛好家が作った雑誌だったのだが、3号で早くも廃刊の危機を迎えた。そこに、海軍の特攻隊に所属して終戦を迎え、結核療養所に入院中だった中西義郎氏が、病院で看護婦たちにガリバン刷りの協力を得ながら続行を決意したという。創刊の頃から少しではあるがラテン、ブラジルの音楽記事も扱う希少な雑誌だった。
1960 年代末には、セルジオ・メンデスとブラジル 66、バーデン・パウエル等が日本にも紹介されて、ブラジル音楽が人気になったが、あくまでもアメリカ経由、南米のブラジルの音楽ということにはあまり関心は持たれなかった。しかし、60 年代の後半になって京都大学中南米音楽研究会出身の中村とうよう氏が「ミュージック・マガジン」や本誌で、ブラジル音楽のことをかなり取り上げるようになってきた。筆者は当時、日本フォノグラムという会社でディレクター職についていたが、「フィリップス・ブラジル・コレクション」という企画を立ち上げた。当時のブラジルではフィリップス・レーベルを扱うリオのポリグラム社が最大。つまり、超人気アーティストは全部ここにいた。70 年代初頭、この企画が初めてブラジルという国の音楽として認知され、マスコミにも正しく紹介された。
1983年月刊「ラティーナ」へ改名
74 年中南米音楽に入社。79 年からは、音楽鑑賞団体と組んで、ブラジル・シリーズを開始。ガル・コスタ、エリゼッチ、アルシオーネ、クララ・ヌネス … と毎年日本全国公演を行う。他にも FM 東京、そこから独立した J-Wave と一緒に、ナラ・レオンやジョイス、パウリーニョなどブラジル音楽を猛アピールしたのが 80 年代、90 年代だった。雑誌も、固苦しい「中南米音楽」から「ラティーナ」に改名。83 年のことだった。この頃から中心はブラジル音楽に傾いていた。そして、原盤のあるレコード会社にも日本発売を奨め、マスコミにもカーニバルだけではないブラジルの素晴らしい数々の音楽イベントを紹介、取材協力してきた。
ラティーナ社の事業内容
弊社の経営は、この雑誌の発刊、輸入盤・楽器の輸入販売、中南米アーティストの招聘・制作業務の3部門が主体だった。当初は、愛好会の会報誌程度だった雑誌も、商業雑誌としての体を為してきたのは 70 年代の後半頃だっただろうか。当時はたくさんのレコード会社、オーディオ会社、航空会社と、広告スポンサーの幅も広がって、どれもがリンクしてくるようになった。
私は、中南米音楽社の番頭的な立場だったが、92 年、前社長の中西氏がアルゼンチンからの機中で亡くなった。94 年、私が雑誌と招聘・制作業務を全て引き継ぐ株式会社ラティーナを立ち上げることになった。編集部6人と一緒での新たな出発だ。その後、ソニーと組んで、私の世界中のプロデューサー仲間を巻き込んで、映像・編集を配信する新しいビジネスを始めたりもした。引き継いだ当初から苦労はあったが、順調だった。
しかし、15 年ほど前からだろうか、色々な面で音楽業界を取り巻く世界の状況が変わってきた。まず、パッケージ・ビジネスが主力だった音楽業界が、もはや CD の販売だけでは生きられないほど不振に。代わって、デジタル音源の配信ビジネスが伸びてきたというものの、利益率ではパッケージに比べると比較にならない。CD の輸入をやってきた弊社は、仕入れたいにも現地で CD そのものが発売されなくなっている。弊社は発刊以来アルゼンチン・タンゴも扱っていて、ブエノスアイレス市からの依頼で毎年タンゴ・ダンスアジア選手権を開催しているが、その関係で、タンゴの衣装・靴などの販売はまだ好調だ。
「ラティーナ」誌 2020年5月号にて休刊
一番深刻なのは、紙媒体の不振。弊社は雑誌編集・映像制作にデジタルを取り入れたのは早かったが、そのデジタルの波に雑誌まで飲まれてしまう羽目に。紙媒体として68 年の歴史に幕を引き、昨年 8 月から e-magazine LATINAとして再出発している。NOTE というプラットフォームを借り、宮沢和史氏にプロデューサー役を引き受けてもらってのマガジンで、やっぱり紙媒体よりは随分多くの読者に読まれるようにはなったが、ビジネス的にはまだまだだ。しかし、このプラットフォームは長文を読んでも楽だし、コロナ禍が終われば、イベントと結びつけて新たなビジネスも期待できる。アイデアはたくさんあるのだが、とりあえず、ワクチンが効いてコロナが終息し、海外からアーティストの招聘ができないと何も始まらない。そして、やはり、今後もライヴが一番と思っているし、コロナ後のその日を迎えることが今一番の願いである。