(一在勤経験者の「印象」)

 

令和3年4月
執筆者:外務省 総合外交政策局 参事官 大鶴哲也 氏
(前・在リオデジャネイロ総領事)

 

リオデジャネイロ在勤1年5か月(2019年10月~2021年3月)。これに過去3度に亘る外務省中南米局勤務(=その間ブラジル出張複数回)を経て、筆者の中に造影されているブラジル像は、今のところ次のような3つの相矛盾する印象軸から成り立っている。

 

すなわちブラジルとは、

・大きくて、小さい国、である。
・柔らかくて、硬い国、である。
・哀しいが、幸せな国、である。

 

1(1)「大きい」国

・ブラジルは「大きい」国である。

面積は世界第5位、日本の23倍。米国「本土(CONUS)」よりも広い。南米大陸の半分を占め、同大陸12か国のうち10か国と国境を接する。

人口も世界第6位で、日本の2倍弱。南米大陸に住む人間は、その半分がブラジル人である。

名目GDPは世界第9位で、カナダやロシアよりも大きい。ラテンアメリカのもう一方の雄メキシコにも大きく差をつけており、つまりブラジルは、西半球では米国に次ぐ2番目の経済大国である。

またサンパウロ州だけでそのGDPはアルゼンチン一国に匹敵し、事ほど左様にブラジル各州は(その面積や人口はもとより)経済規模でも、ラ米スタンダードでは普通の「国」レベルのボリュームがある。

・このような実態を、一般の日本人はどれだけ理解/知覚しているだろう?

メディアは、サッカーやカーニバル、街の暴力とブラジル大統領の面白おかしい言動しか報道しない。新型コロナの感染状況についても、英国やドイツなど人口も面積もブラジルの数分の一の国々と並べて論じられるなど、比較のベースがそもそもおかしいことがままある。

・地政学や経済もまた「国の格」を規定する。米国との切り結び方、中国との関係など国際関係の局面においても、「大国」ブラジルの動きが西半球、ひいては世界全体にどれだけの影響を及ぼし得るか、主体的国際プレイヤーとしてのブラジルの「存在感」(少なくともその「潜在力」)について、我々もよく見て、よく考えていく必要がある。有り体に言えば、中南米はもとより、欧州各国と同レベルに論じて済ませてよい国では本来ないのである。

 

(2)「小さい」国

・しかし同時にブラジルは、単独で自己完結し、内向きに「小さく」まとまってしまっている国でもある。

・中南米代表として国連安保理常任理事国入りを主張する一方で、国際感覚はお世辞にもとても研ぎ澄まされているとは言えない。一般ブラジル国民の、世界情勢や周辺国に対する関心は驚くほど低い。

これは何故か?

安全保障上も市場規模でも一つの独自世界を形成して安閑としていて許される位置と大きさ、という面はあるだろう。メキシコのように米国に近接しているわけでもなく、またチリのように単独運営が困難な経済構造にもない。主要農産物が流行っては廃れ、鉱物資源を掘りつくしても、いつの間にか次の自然資源が見つかって、歴史上常に「何か」が当国にそこそこの繁栄と発展をもたらし続けて数百年。この絶え間ない僥倖を享受する中で、ブラジルは国としてのサバイバル意識が摩耗し、危機感が薄いまま今に至っているのではないか。

・周辺のスペイン語圏諸国が早い段階から中小規模に分立していったのと対照的に、ブラジルはその成立から発展期を通じ(歴史的要因や偶然も重なって)、一つの大きな大陸国家のままで推移した。そのことが逆に、安全保障や経済生存競争に緊張感を失わせ、国としてのメンタリティをちんまりまとまらせているのだとしたら、皮肉なことだ。

・国家存亡の危機も大きな戦争も経験しないまま現在に至り、また海外進出はその必要に迫られる前に(或いはその準備が整う前に)、世界の帝国・重商主義時代は終焉。第二次大戦から1985年の再民主化にかけての期間は、ご多分に漏れず米国の左傾化阻止戦略に巻き込まれ、例えばJango(ジョアン・グラール大統領)失脚の背後に米国の影が喧伝されたりもするが、その介入ぶりは(米国お膝元の)中米諸国へのそれのようなピリピリしたレベルには到底達せず、また真面目な軍事侵攻対象とはなり得ない図体のデカさもこれあって、ブラジル側の危機感はずっと薄いままであった。因みに「O que é isso, companheiro?」(邦題「クアトロ・ディアス」)という映画はリオデジャネイロ(既にブラジリア遷都後であったがまだ各国大使館があった)が舞台だが、1969年にリオで実際に発生したアメリカ大使誘拐事件を題材にしている。

 

(3)身の丈に合った成熟を。

・メキシコを引き合いにブラジルの製造業発展の遅れが指摘され、アジア諸国に比べてインフラの整備がなってないとも揶揄されるが、ブラジルに実際に住んでみれば、少なくともそういった批判を許すような単純なものではないのではないかという気がしてくる。

確かに、寝そべっていても手に入る自然資源が人類からある種の勤勉さを奪うことは一面真実ではあろうが、その適否・功罪を突き詰めていけば、人間にとって一生の幸せとは?といった哲学的な方向に議論が跳ねかねない。

・「眠れる」なんちゃらブラジルの、より喫緊の問題はむしろ「その(歪んだ)自己認識そのもの」なのではないだろうか。

大国が大国然と振る舞う、或いは小国が小国なりに生存競争に挑む、それは何ら自他の精神構造に深刻な影響を及ぼさないが、図体の大きさに見合わない行動は、時に周りを困惑させ扱いを難しくする。しかも小国が目一杯背伸びしようとしても自ずとそこには実態面で限界がある(北朝鮮を見よ)のに対し、規模の大きな国が小国マインドで、或いは自国ファーストonlyで振る舞われてしまうと、大人(たいじん)国家の風格を期待している我々ブラジル・ファンのフラストレーションは溜まる一方だ。ぐずぐずされては、(当該国自身の発展が阻害されるだけならまだしも)巷間あらぬ誤解と予見不可能性をもたらして国際社会全体のためにもならない。

「大きくて小さい」国は、自らが自らの精神構造を変えようとしない限り、どこにも逃げ場は無いし、誰からも助けの手は伸びてこない(一見「支援」めいて見える某国からのアプローチは、長い目で見て「助けの手」などでは決してない)。有り余る資源を効率的に有効活用するなり、一念発起してIT大国を目指すなり(実際この国にその芽は十分ある)、とっとと自国の態勢(や体制)を整え、一刻も早く一流の大国らしくドンと構えた横綱相撲をとってもらいたいと願うばかりである。

・ブラジルを理解し、ブラジルを愛する我々は、そのための支援や助言を、そして時には批判や叱咤を、積極的に行っていくべきであろう。ブラジルとの付き合いが深まるにつれ、相手に痛みをもたらすような変革の必要性について、我々外国人の口は時に重くなり、つい遠慮してしまうようになる。が、これは結局ブラジルのためにならない。

 

2.(1)「柔らかい」国

・ブラジルはその「発見」から520年、独立以降で数えても既に200年近くが経過するが、真に近代民主主義国家として歩んだ歴史は実はまだ35年と、若い。

・このためか、政治/経済/社会の各分野で、制度上あるいは運営上の未熟さを露呈する局面がしばしばある。例えば、税制などの国の基本制度がその効率性や効果の面で未だ錬磨されていないし、法執行や法律解釈の極めてベーシックなところが、未だに四の五の議論されている。

・しかし「未熟さ」は、良く言えば社会がまだまだ「柔軟な」状態にあるということでもある。改革や脱皮の余地も余力も、大きく残されている。しかもこの国はイデオロギーや宗教起源の社会慣習上の縛りからも、今のところ比較的自由だ。

・1985年の再民主化時点を明治維新のタイミングに例えれば、今のブラジルは明治35年。日英同盟が成立した年、桂内閣の時代に当たる。桂太郎は維新後6人目の首相だが、こちら現職ボルソナーロは再民主化後8人目の大統領であり、短命に終わった者を除けば、ほぼ同じ数の政権を経験してきたぐらいの地点と言っていい。

・ブラジル各界を苛む汚職文化にしても、1985年の再民主化を日本の戦後民主主義スタート時(1945年)に重ねて見れば、現在のブラジルは昭和55年(1980年)、リクルート事件炎上の前の段階に当たる。日本の腐敗防止関連法制や政治改革が80年代以降に加速したことに鑑みれば、改革の機が熟してくるのは未だこれからなのかもしれない。Lava Jato騒動を歴史が後から振り返って、あれがブラジルのロッキード事件だったと後年総括できることになるかもしれない(希望的観測である、もちろん)。

・「若い」と言えば。昨年秋の統一地方選挙でエスピリトサント州都ヴィトリア市の市長に選ばれたのは弱冠26歳の当選一回目の州議会議員。高IQ天才少女から政治家に転身したタバタ・アマラル連邦下院議員や、リオ州でも、ブルーノ・カズヒロ・オオツカ州インフラ長官、ヘナン・フェヘイリーニャ市教育長官など、既得権益から自由な若く優秀な政治家たちがブラジル各地で輩出されつつある。彼らの中には貧困家庭出身の者もおり、将来、軽やかなgingaのステップで社会構造改革に辣腕を振るってくれるのではないかと大いに期待している。

 

(2)「硬い」国

・上記と矛盾するようであるが、経済格差や貧困の問題は、ブラジル社会の隙間という隙間にコールタールのようにべっとり粘り付いて、容易に剝がれないのもまた事実である。ブラジルにおける人種問題の存否や社会階層の硬直性については、「ある・ない」「硬い・緩い」と様々な論説バリエーションが存在するが、選挙当選者や富裕層に占める白人の割合が人種構成比とかけ離れていること、所得格差のレベルが当国では他国と比しても甚だしいことなど、数字が明示的に物語って否定困難な事象も多い。

・ただ、一次産品の需要増や新型コロナ対策の緊急支援給付など、ほんのちょっとしたきっかけで貧困/中間層の割合の数字が簡単に数十%ポイント規模で上下動するのもまたこの国の現実であり、実はこの面でもブラジルは未だ「柔らかい」国である可能性が捨てきれない・・・と言うか心情的に、捨てたくない。つまり、ブラジル社会構造の根本的変革はまだまだ可能だと信じたい。

素人なりにちょこっと考えただけでも、例えば、日本の高度成長期並みに所得税の累進性を高める、或いはそれなりに累進性を持たせた相続税を新設する、ただそれだけで、かなりの規模の資産再分配が実現し、中産階級層を太らせ、教育レベルを向上させ、もって貧困や犯罪、暴力を減らすことが出来るように思えるが・・・どうだろうか?

・不安なのは(そして不満なのは)、かかるドラスティックな改革を「誰も」本気で推し進めようとしない「硬さ」がブラジル社会に内在しているのではないかと疑われる点だ。今年のはじめ頃、いわゆる富裕税の創設法案が廃案になった。最富裕層がおよそ再分配政策的なものに反対するのはまだよく解る。当国の政治構造への影響も非常に大きく、この岩盤を切り崩すのは容易ではないだろう。しかしブラジルの真の問題は、低所得層や貧困層といったもう一方の側の人たちが、不満を熟成させ、真剣に変革を推し進めようとする姿勢を見せない、少なくとも、格差縮小の訴えが組織だった運動につながっていない、という点にあるような気がしてならない。とある先輩から「それはブラジルに限ったことではなくラ米諸国にある程度共通に見られる事象」と指摘を受けたが、先年チリやアルゼンチンで緊縮財政措置に反発する反政府大規模デモが発生した際も、ブラジルの有識者たちは「ブラジルには飛び火しない」と高を括っていた。ブラジルにも大衆運動や革命の史実はあると一応歴史の教科書には書いてあるが、ブラジル人の肌感覚では、この国では「社会構造をひっくり返そうという動き」は決して(少なくとも民衆からは)起こらないのだ、というのが自己認識らしい。

また、複数のブラジル人から「これはポルトガル植民地時代からの長年の宿痾」であり、もうこの精神構造はそうそう簡単には変わらないのだ、と嘯く解説もよく聞かされた。リベラル経済と構造改革で「産みの苦しみ」を5年も10年も味わい続けるぐらいなら、仮に将来バラ色の未来が来なくっても、取り敢えず明日明後日のメシ種を手に入れられる方がまだマシだ・・・それがブラジル的刹那主義ということなのか?

確かにこの国では、植民地時代から綿々と続く一種の透き通った諦念を感じることがままある。またそこに「まぁ社会(人生)なんてそう言うものさ」といった、あっけらかんとしたある種の明るさ、「せめてもの救い」感がない訳ではない。

・しかしながら、今のフラット化した世界で、GDP世界ランク第9位を誇る国ブラジルの、その全国民の4人に1人=6、000万人以上(=日本国民の半数!)が月収9、000円未満で生活しているという事態は尋常ではない。また、殺人や強盗、麻薬取引など憂慮すべきレベルのデータは、その背景に貧困や経済格差の問題があることは間違いないだろう。

自由主義経済体制のみでは、国富の最大化は目指せても、その富の適正再分配が出来る保証はないというのが歴史の教訓、「見えざる手」の限界である。貧困層から中産階級への「昇格」装置は、その時々の為政者から(上から)与えられるものではなく、自らの政治行動を通じて社会システムにビルトインしていくものだと認識されねばならない。そのための教育の重要性はもちろん言を俟たないが、手っ取り早く理想像をヴィジュアライズして広く国民意識に植え付けていく努力を誰かが率先して始めなければならない。しかしそれは恐らくブラジル現行システム内の政治層からは出て来ない動きなのであろう。

 

(3)情けは人の為ならず。

・では、誰が、どうするべきなのか?

ブラジルではこれは一種「ニワトリと卵」である。これだけ大きい国でしかもシステムに歪みが既に生じている以上、ある程度まとまった予算ボリュームがないと、目に見える行政改革・サービス向上を一気に進めることには相当の困難がある。が一方、汚職や疑惑で政府への信頼が失われている中では、大幅な増税や科金徴収は(2013年に見られたように)かなり難しい。

だとすれば、最初に自己犠牲を払って改革財源を拠出すべきは(と言うか、それが可能なのは)富裕層、ということになるだろう。少なくとも、それが一番手っ取り早い。

・何もかつての日本のような70%超の累進課税でなくともよい。資産家たちは、自身の富をほんのもう少し国内再分配に回すことで貧困が減少し、治安が改善し、より信頼できる法執行が可能となり、もって自分たちが払う警備費用も縮減されると理解すべきであり、また各セクターの生産活動が活発化するような構造改革が成功すれば、社会全体の資産投入が質量ともに効果的に調整され、結局、資産家自身の投資や資産運用もより生産性を高めベネフィットが向上して、何も既得権益にしがみつくのに汲々とせずともよくなる社会がやってくる、という絵姿を真面目に頭に思い描くべきである。

結局「歳入」「歳出」は、当該国国民の、公共サービスへの信頼感と期待度、これにより規定される。行政への信頼度が高ければ税金はきちんと納められるし、行政に「社会全体」の底上げが期待されるなら予算使途は厳格に監視される。逆に「自分たち(だけ)」への利得誘導を期待する輩が多ければ、予算は腐敗財源に成り果ててしまうのみだ。

富裕層が自らの資産を削って国のために提供することは、「あの働かない怠惰な連中」「われわれとは違う世界に住む負け組」へのお情けではない。愛国心の発露ではあっても、利益享受者は国そのものでもない。自分と、自分の子孫や親戚友人たちの、安全と繁栄、社会の安定のための必要経費であって、いわばこれは「自己投資」である。

今般の新型コロナ対策のための緊急支援給付金がブラジル社会各方面にもたらした効果のほどを見ていれば、富裕層だって上記のようなことにしっかり気づいているのではないかと思われるが、どうだろう? 皆、隣と目線を交わしながら、誰かが言い出しっぺになるのを待っているだけか? そう信じたい。

・この点、上記(2)で言及した富裕税についての当国メディアの無関心ぶりはどうしたことであろう? 1月11日付フォーリャ・ヂ・サンパウロ紙を除きどこも大きな記事を載せていない。同法案で新たに所得課税(増税)対象とされていたのは最富裕者層約6万人=ブラジル全人口の0.028%、そしてその税率は0.5%~3%の想定だったという。これが実現できずにどうやって再分配など出来るだろう? ゲデス大臣の拒否事由は徴税技術面にあった由だが、それにしても健全なメディアがこれにほぼ沈黙していたことの方が、法案廃案自体以上によほど深刻なのではないか・・・

・・・・などということを、商売や交渉など普段の業務提携関係にある外国団体・外国人からは正直、なかなか申し上げにくい。特に、日本の各界人が相手にするのは当国エスタブリッシュメント層が中心ということもある。いずれにせよ、改革が「痛み」を伴うものである場合、ブラジル人自身がそれを真摯に考え、独自の階層文化を克服して、自分たちの社会をよりよい未来に向けて修正していくことが必要だ。

 

3(1)「哀しい」国

・貧困と社会の階層化、そしてその階層間の流動性の欠如と、その事実に真正面から向き合おうとしない一種の諦念(というよりももはや「空気」)は、ブラジル在住の我々外国人の気持ちを時に暗澹とさせる。特にリオデジャネイロのような、降り注ぐ陽光や輝くビーチ、風光明媚な風景などとのコントラストはまさに「悲しき熱帯」の様相だ。

・リオ到着直後から、人種差別、階層固定化といった事象についてのブラジル人の本音や深層、そこに奥深く眠る原罪感覚(の有無)や、刷り込まれた歴史との因果関係など、よりよくより深く知りたいとずっと関心を持ち続けてきた。「ブラジルは米国とは違う。混血が進んだこの国には、人種差別は無い」と言い切りながら、高級レストランやある種の社会イベント会場に肌の暗い客が殆どいない現実に、本当に何の疑念も呵責も感じていないのか?・・・しかし1年と数か月のブラジル滞在(しかもコロナ禍下)では、この辺りを深く掘り下げて観察するにはぶっちゃけ時間が不十分であった。わたしは今も、この問題の「本当のところ」を正直よく判っていない。

しかしながら少なくとも、当地富裕層や中産階級が、その地域共同体にコモンズ的観念をほとんど持たず、自分たちの衣食住にだけ気を遣いカネを使うのみで、彼らから見て「あっちの世界」や「丘の上の不可触地域」である貧困地帯をそのまま放置してきた事実は、否定できないように思う。小官も一度機会を得てそういった地域(のほんの入口)をこの眼で実見することが出来たが、最早それは何処から手をつけたらよいのか、ただただ茫然とするだけの風景であった。そうなっている理由や言い分はいくらでもあるのであろう。しかしながら、現状そこがそのままでは、とても街全体の機能を整備し地域の安全や衛生状況を向上することは出来ないであろう。

・この構図の倍率を拡大すれば、ブラジルという国(state)の持つ国民国家(nation)意識のレベルと将来性の限界が透けて見える。自分たちの身の周りとコミュニティの風景に既に、この国が「一見」誇る多様性と許容性の原点も、また同時にお互い分化して決して交わることのない共存関係(いや、併存関係)も、相似形のように凝縮されて看て取れる。(因みに、世界のアフリカ系人口の多さランキングでは、ブラジルが(アフリカの外にあるにもかかわらず)世界第二位なのだとか(一位はナイジェリア)。)

・クレベール・メンドンサ・フィーリョ監督作の「バクラウ」というブラジル映画は、カンヌ映画祭でも高い評価を得た佳作だ。舞台は平穏で静かな共同体、でも構造的には周りから搾取される対象でしかない小さな田舎の村。ある日そのコミュニティの「生存」そのものが外部から侵されそうになった時、村人たちは団結して立ち上がる。黒澤明「七人の侍」にも似た舞台設定は、しかしその危機的状況に至るまでのテンポや辿る道筋に大きな違いがある。おそらく日本の戦国時代の農村が、どんなに努力し反抗を試みても領主や寺社に力で封じ込まれ、そしてその先に飢餓や人身売買の恐怖があったであろうことと比べ、ブラジルの田舎町には静かで穏やかな時間が流れ、そのささやかで単純な毎日には何の不平も不満も存在していないかのようだ。数十年に一回だけ訪れる大型緊急事態に際してのみ全力で抵抗を示して戦うが、それが終わって「敵」を地下牢深くに封印してしまったら、また何事もなかったかのような元の生活現実が戻ってくる。そうして村人たちの飲料水は、いつまで経っても週に一度給水車がタンクで運んでくるのを待たねばならないのだ。

この国の住民たちの生存圏防衛の「意志」は堅固かもしれないが、その「閾値」はとても高いところに在るように思える。ブラジル人の堪忍袋の緒は、なかなか切れないようだ。

 

(2)「幸せな」国

・それでも今日も、通りの住民たちの表情は明るく、柔らかい。一年後、いや来月の生活費に不安を抱えていても、取りあえず今夜のサッカー中継と次のカーニバルでは夜通し騒ぎを続け、週末はビーチサッカーに興じるのがお約束だ。シングルマザーの家政婦は、勤務先で貰ったお下がりの花束と焦げた中古の鍋をにっこり大事に抱えてバスに乗る。

ビーチやバルでのマスク着用率は少ないが、新型コロナに感染しても周囲も本人たちもあっけらかんとして自粛警察も村八分もコロナ由来の自殺もない。富裕層の一部の「意識高い」系も、せいぜい眉をひそめるだけ。確かに感染も死亡者も世界有数だが、家族や仲間と「密」に交わるのはブラジル人にとって酸素みたいなものなのだろう。どれだけ規制をこねくり回しても、メディアが規則違反の店やパーティを告発しても「やめられないとまらない」、今日もリオの海岸にはのんびりゆったりした空気が流れ、マスクフリーの集団が身を寄せ合って日光を浴びている。ある意味「怖いな」と思わないでもないが、東京で他人の視線をびくびく気にしながらフルガードで歩いている時よりも、自分の気持ちに余裕があるのが正直なところだ。

・経済誌「EXAME」が掲載した、2020年秋に世界17か国を対象に行われたアンケート調査によれば、5-10年後の自分の生活が今より「良くなっている」と答えた人の割合は、日本の52%に対しブラジルは87%(しかもその内「とても良くなっている」との回答が55%――日本はわずか15%)で、今より「悪くなっている」との回答は、日本の23%に対しブラジルが5%だ。

・どうしてこうもみな「楽観的」でいられるのだろう? コロナ禍は感染者も死者も世界有数の数字を記録し、リオデジャネイロにおける殺人発生率は人口比で日本の30倍以上、強盗被害率は日本の1、300倍を超える。コロナ緊急給付金(max時で月額12,000円)なかりせば、ブラジル全人口のなんと85%(!)が月収4万円未満だったというのに。

 

(3)笑う門には福来たる。

・「神様はブラジル人」という言葉がある。何か上手く行かなくても、われわれ結局最後はハッピーエンド、ということらしいが、この国の歴史を見ていると確かにそう思えてこなくもない。

16世紀の「発見」当初は染料の採れる木しか本国に売れる物産が無くアステカやインカに比べるとほぼ無主地だったブラジルが、その後サトウキビやコーヒー、カカオの世界的産地となり、また日系移住地にはジュートや胡椒が爆発的利益をもたらした(が、その後衰退)。ミナスジェライスでゴールドラッシュが起こるもそれが掘り尽くされたかと思ったら、海の底から世界有数の油田が出てくる・・・ありがとう、神様。

・そうは言っても社会構造にも制度やシステムにも問題が多い国である。貧困と治安は相関関係にあって諸問題の淵源もかなりクリアだが、「小ささ」「硬さ」が「哀しさ」を深くして、モグラたたきのように対策の集中と順序付けを邪魔し事情を不必要にこんがらがらせている。ラッキーだけで進める先も限界があるだろう。

・しかしながら当国に「超」優秀なエンジニアや視野の広いジェネラリストたちが存在することは、わたし自身(たかだか一年余の滞在にもかかわらず)この眼で多数の例を確認済みだ。IT分野などでは進取の気宇に満ちたビジネスパーソンたちが業界紙を賑わせている。今後はこれら若者世代が、単なる僥倖や神様(ブラジル国籍かどうか知らないが)の思し召しを待つのではなく、自らの努力と俯瞰で、この国の次のパラダイム転換をリードしていってくれるだろう。

先般Newsweek誌は、ポピュリズムの陥穽からの脱却のカギを「経済再生モデルの提供」と「サプライチェーン再構築(他国経済との融合)」にあると指摘していた。これをブラジルに当てはめれば、前者は「資源頼み経済からの脱却」、後者は「国際スタンダード並みのビジネス環境整備」、ということになるだろうか。

・ブラジルは日本に無いものを多く持つ。土地、資源、そして「柔らかな」若さと「幸せ」な楽観主義。この「大きな」国は、アマゾン川の流れのようにゆっくりと、でも確実にその幅を広げながら、大海原に向かってちゃんと流れて行くことだろう。

 

4.さいごに、ナマの声。

ブラジルと日本の両方を知る日系人(一世の方々や、二世以降でもデカセギ経験がある中高年)に会う度、小官は「日本とブラジル、余生を過ごすとしたらどちらの国が良いですか?」と聞いてみることにしている。まだせいぜい数十人といったサンプル数に過ぎないが、これまで9割以上の人が迷うことなく「ブラジル」と回答した。

若干意外な思いを抱きながらも、これはきっと何らかの真実を物語っているのだろうなとつくづく感じる今日この頃(日本帰国後約一ヶ月)、である。

 

 

(注)本稿はあくまでも筆者の個人的見解に基づくものであり、日本政府や日本国外務省の公式な立場を必ずしも反映しているものではありません。