執筆者:沼田 行雄 氏
(協会理事、元在ベレン総領事)

ブラジルには、リオ・デ・ジャネイロとリオ・グランデ・ド・スールの両州にペトロポリス、即ち、ペドロの街という名前の都市がある。

一つ目のペトロポリスは、リオの北約70キロに位置する人口約30万人の高原都市。ブラジル南東部を南北に走る海岸山脈にあり標高約800メートル、快適な気候条件に恵まれ避暑地として発展、ドイツ系、イタリア系移民が多く住む地域としても知られる。名前の由来は、ブラジル帝政二代目の皇帝ドン・ペドロ2世。1822年のポルトガルからブラジル帝国として独立して間もない頃、初代皇帝ドン・ペドロ1世が、オウロ・プレトからの帰路に立ち寄ったことが契機となり、息子ドン・ペドロ2世が1845年に建設を開始し、62年に完成した王家の宮殿を中心に都市として整備したことから、ペドロの町、ペトロポリスと名付けられた。

ドン・ペドロ2世の治世下では、夏場の5ヶ月間は、王室そのものがリオから移動してきたため、避暑地としてだけでなく、行政上の拠点としても発展を続けた。1889年の帝政崩壊後も、当時、リオ・デ・ジャネイロなど海岸部で大流行していた黄熱病を避けるべく、多くの外交団がペトロポリス市に拠点を置くなど、外交都市として機能した。実際、1894年から1902年まではリオ・デ・ジャネイロ州の州都にもなり、1897 年に初の日本公使館が設置されるなど日伯関係上も重要な都市である。小規模ながら日系社会もあり、毎年、日本祭りが開催されている。

私は、1988年~91年まで在リオ総領事館に勤務したが、この間、週末になると軽井沢を思わせるお洒落なこの街をよく訪れた。ビジターでも気軽にプレイができたペトロポリス・ゴルフ・クラブで、同僚や友人達とともに、起伏に富んだ山岳コースを楽しんだことを思い出す。また、ボヘミアンビールという地ビールが有名で、プレイの後の一杯は格別であった。市内では、ペトロポリス大聖堂(Catedral)や皇帝博物館(Museu Imperial)など見どころも多い。皇帝博物館は、かつての王宮であり、各部屋は家具を含め往時のまま保存され、ドン・ペドロ2世の王冠や奴隷廃止令の署名に使用された金の羽根ペンなど王家ゆかりの重要な文化財が所蔵されている。市街地から少し離れた山の中には鱒の養殖場があり、美味しい料理を出す店があると聞いて車を走らせたことがあり、その時は結局見つけられなかったが、Trutas do Rocioという1990年創業の素朴な民家風のレストランがあるようだ。

もう一つは、最南部リオ・グランデ・ド・スール(RS)州のノーバ・ペトロポリスである。州都ポルトアレグレ市の北約90キロにあり、ペトロポリスと同じように標高約700メートルの美しい高原の町である。人口は約2万人ながら、年間約20万人の旅行者が訪れる観光地である。

ブラジル南部は、気候的に欧州と同じように温帯地方に属することもあって、ドイツ、イタリア移民をはじめとする欧州系移民の多い地域。中でも、ドイツ人のブラジル移民は、1824年に37名がRS州のサン・レオポルドに入植したことに始まり、その後、ブラジル南部で独立を求める共和派の反乱「ファホウピーリャ革命(Revolução Farroupilha)」が発生したため、1935年から10年間に亘り外国人の流入は中断するが、1845年の反乱終結後、この地域への移民・植民事業が再開された。 1858年9月に新たに8ヶ所の郡(municipio)の創設が決まり、その一つが、ノーバ・ペトロポリスであった。当時、ブラジルは隣国のアルゼンチン、ウルグアイとの国境問題を抱えており、国防の拠点造りのためにドイツ人始め欧州系移民による植民事業が進められたものであり、爾来、50年間に約2万8千人のドイツ人がこの地域に移住した。因みに、ドイツ人のブラジル移民総数は約24万人(日本人移住は約25万人)と言われる。

ノーバ・ペトロポリスの名前の由来は、反乱を終結させた皇帝ドン・ペドロ2世への敬意を表明するとともに、整備が進められていたリオのペトロポリスに准えたるものである。この町には、ポメラニア、ザクセン、ボヘミア及びライン・フンスリュックなどドイツの各地方から移住しており、いまでも人口の90%以上はドイツ系が占めている。特に、フンスリュック地方のドイツ語を話す人が多く、学校教育や教会等を始めドイツの制度や文化が大切に保存されている。また、1902年に、ブラジルで最初の農業協同信用組合を設立したことでも有名である。

リオの後、1991年から94にかけてポルトアレグレに在勤していた頃、何度か訪れたことがあり、今でも、毎年欠かさずに市役所から美しい写真入りの年間行事カレンダーが送られてくるなどもあって、とても親しみを感じる町である。街の中心に、移民村公園(Parque da Aldeia do Imigrante)があり、ドイツの寒村にあるような教会や初期移住者の家が再現され、10月には、本国と同じようにオクトーバーフェスタ(Oktoberfest)が開催されていた。ビールのジョッキを片手に、民族音楽の生演奏に併せ民族衣装を纏った男女のペアの踊りを楽しませて頂いた。公園内には不思議なことに相撲の土俵があり、整体師をされている現地在住の日本人移住者の縁で設置されたとのことであった。

また、セーハ・ガウシャと呼ばれるこの山岳地域は、シーボルトが日本からオランダに持ち帰り、ドイツ人移民を経由してブラジルに伝わったとされる紫陽花で有名なところ。ノーバ・ペトロポリスでも、2月には移民村公園の湖周囲などで紫陽花が美しく、その少し前には、日本人が植樹した沖縄の緋寒桜が濃いピンクの花を咲かせる。

2013年8月にベレンから旅行で訪れたときには、伝統的な国際民族祭が開催されていて、インドネシア舞踊団が公園内の野外ステージに立ち、地元の市民達との交流を行っていた。日本との関係でも、昨年はコロナ禍の影響もあり流れたものの、2015年から毎年12月に庭祭りと呼ばれる日本文化フェスティバルが続いていると聞く。

以上、ブラジルの二つのペトロポリスを紹介させて頂いた。他にも、ブラジルには、ノーボ云々やポリスという都市が多くあり、RS州では、ノーボ・ハンブルゴ、RJ州でも、ノーボ・フリブルゴ、テレゾポリスなど、その由来を探ることは興味深いものがある。