倉智隆昌

新天地での挑戦
113 年前の笠戸丸から始まった移民政策や、入管法改正による1990 年代の日系ブラジル人の出稼ぎラッシュなど、地理的に最も遠い位置にありながら歴史上で重要な関わりを持ち、日本とブラジルは「遠くて近い国」と比喩された。両国はその後、文化的な交流を深め、現在ブラジルでは日系四世・五世の世代となりながらも、日本の精神性や文化に対してロマンティックな思いを馳せる日系人や非日系の親日家は後を絶たない。私は彼らとは違い日本で生まれ育ち、また彼らとは逆にブラジルの大地に思いを馳せた日本人一世である。
2004 年、21 歳の時に私はブラジルへ渡った。移住目的の渡航であり、海を渡った理由として、「窮屈な日本が肌に合わずブラジルの雄大さに惹かれたこと」、「16 歳の時に実家が倒産して家や財産を失い新たなる新天地を求めたこと」、「新興国独自の過剰なエネルギーを欲したこと」などが挙げられる。当時のブラジルはBRICK の一角として注目を集めており、私は若さゆえ精神的な開放を目的として渡航したが、国としての経済的な将来性も少なからず意識していた。
この17 年間、現地で様々なビジネスにチャレンジしては失敗を繰り返してきたが、それら失敗から学び、8 年ほど前に日伯間のODA コンサルティング事業にて独立することができた。その後、南米産の食材を日本に輸出する事業や、豚骨ラーメンを主軸とする飲食店「一幸舎」と麺と餃子の開発兼卸工場である「慶史」など、現在4 社を経営している。いずれも「食」をテーマに、日本とブラジルを繋ぐというミッションのもと事業を展開している。

ハードな経営者ライフ
観光や雇用される側の立場では、ブラジルはまさに住めば都。治安の悪さや生活インフラの不備に不満は残るが、気候よし・食事よし・人よしの愛すべき親日国である。
しかし、実際に起業してビジネスシーンに躍り出るとそうはいかず、様々な難関や苦労を味わうことになる。レアル通貨のリスク、多民族国家ゆえの幅広いニーズ、所得格差によるターゲティングの難しさ、ヨーロッパ移民から形成されたコンサバティブな商習慣、広大な国土による流通コスト、多数の労働裁判、高い許認可取得のハードル、重く複雑に絡み合う税金等、現地でのビジネスを通じて様々なことを勉強してきた。
その中でも特にブラジルの“拝金主義”が起業家に大きくクリティカルにのしかかる。これは既得権益が彼らの利益を守る為のルール作りをしてきたことに起因するが、他にも日本人が持つコンテンツやバリューでビジネスをしようとすると、どうしてもアッパー層へのアプローチとなり、イニシャルコストが高くなるという側面がある。数千万円のキャピタルではどうしても中途半端な事業となってしまい、スケールアウトできず、また大きな利益も残せない。一個人で1 億円の資本金を集めるのは至難である。
次に行政機関、サプライヤー、従業員など、全てがブラジル独自のリズムで動いており、きめ細かい我々日本人のビジネス習慣はマイノリティーとして拒否される。行政機関は内部に独自のコネクションを持ち、サプライヤーは相手がエクスキューズできない状況で交渉し、従業員は経験に裏打ちされたフィロソフィーでまとめ上げることができないと、ブラジルではビジネスが前進しない。

従業員ありきの経営
前述した中でも、「ブラジル人の従業員をいかにまとめるか」ということが経営に直結する大事なファクターである。日本とは異なる環境と文化で育ち、異なる信条で生きている人たちを理解し、まとめ上げるのは簡単なことではない。私は従業員をまとめる為に、「人はなぜ働くのか?」というシンプルな理由を説き伏せるという方法を取った。
私は、人が働く理由を三つに分けて定義しており、一つ目は「収入を上げる為」である。これは資本主義社会で生きている上で非常に分かりやすい。二つ目は「技術と経験を上げる為」である。仕事を通じて人生にプラスとなる技術と経験を習得するということで、これも分かりやすい。三つ目は「心を高める為」である。これは日々の生活の中で起こり得る問題は、自分自身に原因があり呼び寄せていることであり、エクスキューズせずに乗り越えれば、必ず人間的成長が待っているという考え方である。他責にして逃げ出せば、必ずまた別の場所で別のタイミングで同じ問題が顔を出す。職場という環境を利用して、私たちは心を高め、人間的成長を目指す為に仕事をしているのである。
ブラジルで独立し経営者となったことで最も良かったことは、私たちの商品やサービスを待つマーケットに、バリューを提供できたことと、苦難を乗り越え人間的に成長できたことである。人間としても経営者としても未だ半人前
だが、これからも日本とブラジルを繋げる為に、「理念と使命」そして「ビジョンと情熱」を持ち、一生懸命邁進していきたいと思う。