齋藤裕介(㈱ミツトヨ 商品販売戦略部次長)

ブラジル創業の歴史
現在、株式会社ミツトヨは世界でも有数の精密測定機器総合メーカーであると自負している。モノづくりに欠かせない測定機器及びサービスを80年以上も世の中に提供してきた。その歴史の中には様々な困難があった。創業者は関東大震災や第二次世界大戦の経験から、いかなる天変地異が発生しても当社の灯を途絶えさせるまいと考え、日本から最も遠い地に目を向けた。その中でブラジルの勤勉な日系移民たちに心を打たれ、この地に第二のミツトヨを建設しようと決めた。それがMitutoyo Sul Americana(以降、南米ミツトヨ)の始まりである。日系移民が多く暮らしているスザノ市に工場を建設し、1974年に創業を開始、当社としては初の本格的な海外工場として、生産品目を年々拡大していった。米国への輸出を開始するも、オイルショックの発生と重なるという厳しい船出であった。それでも政府による国内産品への優遇政策は、輸入に頼る競合他社対する優位性を長期に渡ってもたらし続けた。

ブラジル勤務
そのような背景のある現地法人へ赴任を命じられたのは2014年。母校・東京外国語大学ではポルトガル語を専攻し、採用面接の段階からブラジル赴任を希望していた身としては、最初の海外赴任命令がメキシコであったことに当初落胆をしつつも(結果的にメキシコ生活も最高!)、入社約15年でのブラジル・サンパウロ赴任実現に心躍らせた(家族の説得はやや難)。サッカーワールドカップ・ブラジル大会の開催年でもあったその年は、資源バブル終焉、ペトロブラス大汚職発覚、国家財政難等々で国が揺れており、日々デモが繰り返されていた時期と重なる。夜にはパネラッソの音が響き渡り、明るいお祭り騒ぎに向かう気持ちになれない、そんな時期。その後も経済は悪化の一途を辿り、硬直的な労使関係や人件費の高騰に我々製造業は悩まされ、どうすれば利益を生み出せる会社に生まれ変わるか?? 考えさせられる日々が続いた。家族のおかげで家庭では幸せであったが、職場では心が荒れていたように思う。
言うまでもなくサンパウロ生活において家族の存在こそ最大の心の拠り所であったが、それとは別に小さな楽しみも幾つかあったものだ。1つはブラジルの音楽を楽しむ。夜な夜なライブに繰り出したり、カーニバル会場で歌いまくれば、日々のストレスは飛ぶ。もう1つはハンバーガー。サンパウロは大都市だけあって、美味しいレストランは数多くある。どこで食べてもシュラスコは美味しい、ムケッカは芸術であるし、ラーメン店の出店ラッシュに家族は喜んだものだ。それでも私はハンバーガー派。肉とチーズの質が世界トップクラス(私の基準で)なのだから必然でしかない。私の密かな楽しみはストレスと表裏一体で、表はサンパウロ市街の渋滞とホジージョ制度(自動車運転可能な時間帯と区域の制限)というストレス、裏では制限区域外でのパン屋探索! アタリのパン屋をGoogle Mapにマーキングするのが楽しみであった。ピッカーニャやモッツァレラチーズは日本でも食べられるが、サンパウロのパン屋風ハンバーガーには未だ出会っていない。あれば是非教えて頂きたい。

南米ミツトヨの現在
小さな楽しみとは裏腹に、政情不安は続き、経済も上向かない中で、当社は大きな変革を実行に移し始めた。17年サンパウロの販売拠点を閉鎖し、スザノ市の生産拠点へ販売部門を移し、これを統合。様々なコストの削減が実現した。消費者の購買意欲が少しづつ戻り始めた頃、eコマースが国全体で勢いを増し、代理店ビジネスと自社営業で発展してきた当社も遂にMarketPlaceというプラットフォームを構築(南米ミツトヨHP参照)。移転という決断が旧時代一掃し、社内に若くフレッシュな風を呼び込んでいた。 18年末、日本への帰任命令を受けて帰国の途に就いた約1年後、もう一段の大きな決断が行われた。南米ミツトヨのスザノ工場は四十数年の役割を終え、閉鎖の道を選んだ。販売とサービスへの集中を選択したのだ。工場の生産立ち上げには多くの先人たちが日本からやってきて、日本の技術で歴史をこの地に築き上げてきた。私自身も寂しい気持ちはある。しかしこれは前向きな変革に他ならない。生産に振り分けていたリソースを全てお客様の為に捧げ、Made…in…Japanの商品とサービス力で南米の発展に貢献していくという決意でもある。新型コロナに負けず、力強い企業に生まれ変わりつつあるその様を、遠い日本からサポートする日々が続いている。ブラジルの仲間たちと、そしてピッカーニャとモッツァレラチーズを恋しく想いながら。。。