執筆者:関口 ひとみ 氏
(日本ブラジル中央協会常務 理事)
6月18日は、1908年に神戸港から出航した笠戸丸が781名の日本人を乗せてブラジルのサントス港(サンパウロ州)に到着した日で、115周年記念の節目を祝う様々なイベントが日本とブラジルで開催されました。同時に、ブラジル人が日本に定住し始めたのが6月で33周年を迎え、記念行事が開催されています。
その一環として、群馬県大泉町にあるブラジリアン・プラザ内で活動するRestart Community(何らかの理由で生活困窮に追い込まれたブラジル人が再スタートできるように、日系ブラジル人が中心となって支援活動を行っている)主催の講演会が開催されました。
講演は対面とオンラインのハイブリッド形式で実施され、ゲストスピーカーにアンジェロ・イシ武蔵大学教授及び私(関口)が登壇し、来賓として在京ブラジル大使館パトリシア・コルテス公使が挨拶されました。
パトリシア公使は、長い歴史を有する日本とブラジルの良好な関係が、更に強い絆となって両国の繁栄につながることを期待する旨述べられました。最初に私が、日本人移住者によるブラジル、とりわけアマゾン地域における影響について、また、教育の重要性について述べました。約15分の講演でしたが、以下にその概要を紹介したいと思います。
『本日、日本人ブラジル移住115周年、日本におけるブラジル人のプレゼンス33周年を記念して、日本国内で在日ブラジル人が最も多く居住する大泉町で、ご出席の皆様と、そしてオンライン形式で視聴下さっている皆様とともにお祝いできることを大変喜ばしく思う。
ブラジルへ渡った日本人、日本に来たブラジル人、環境は異なっても多くの苦難を乗り越え、懸命に働き、信頼を勝ち取り、両国の発展のための貢献は大きい。
日本人ブラジル移住に関しては、色々なストーリーやエピソードがあり、皆様も良く承知されていると思うので、今更ご紹介することではないが、笠戸丸から下船した781名の日本人の印象について、当時の新聞(Correio Paulistano)に掲載された記事を紹介したいと思う。
“サントスでは、移住者を乗せた日本船の3等船室は、ヨーロッパ航路の豪華船の一等室よりも清潔で綺麗だった、と評価する者もいた。通関職員は、秩序整列を守り、落ち着いて荷物の検査を受け、誰一人とて疑義の申告をする者はいなかった、と述べている。サントスから移民収容所へと向かう列車を降りる際、全員順番に並び、唾を吐く者も、果物の皮を散らかす者も誰一人いなかった。移民収容所でも、日本人は常に規律正しく食事をし、サロンは清潔で、たばこの吸い殻も、つばも落ちていなく、つばを吐いて、たばこの吸い殻を足で踏みつぶす他の移民とは実に対照的であった。この者達が、秩序と清潔さを重んじると同様の仕事ぶりであれば、サンパウロ州の発展は、かれら日本人の生産性がもたらすこと大であることに相違ない。”
日本人は金こそ持っていないが、品位を保ち、教育を重視したことが称賛され、苦労を重ね、ブラジル社会における地位と信頼を勝ち得たことが多くの文献でも記され、今の日系社会に引き継がれている。無論、サンパウロに限らず、アマゾン地域に移住された日本人のご苦難も筆舌に難しい。笠戸丸から20年後にアマゾン(最初はパラー州ベレン市)に移住し、グアラナの栽培を行った。後に南部のコーヒー輸出用の袋となるジュート栽培に従事にした。何年もの改良を重ね漸くアマゾンの気候に合う、良質のジュート生産に成功した。お陰でゴムに次ぐ産業としてアマゾン地域は繁栄した。しかし、マレーシアのジュートに押され、その栽培も衰退していく。後にアマゾン地域にフリーゾーンが制定され、日本企業を含む多くの外資系企業が進出し、アマゾナス州マナウス市は工業団地として栄えることになる。日本企業は世界に誇るモノづくりでブラジルの発展に寄与しているが、同時に環境や教育にも配慮し、地域の人達と様々な活動を展開している。そのことが益々ブラジルにおける日本への信頼が高まる要因ともなっている。ブラジルに移住した日本人の苦労は計り知れないが、日本のブラジル人も懸命に働き、今では日本に帰化した人、子弟が日本社会に融合し、日本の経済発展に寄与されている。
世代交代は進んでいるが、日本人をルーツに持つことを誇りとし、ブラジル社会で活躍する日系人は移住者の大きなレガシーである。サンパウロの若手日系人は、ブラジルの日系人が大切にしている価値観を見出すため、ブラジル各地の日系団体を対象にジェネレーション・プロジェクトを実施し、8つの価値観(協同、感謝、親切、尊敬、責任感、学習、誠実、忍耐)を確認した。これらの価値観は日本のブラジル人も認識し、日々の生活で実践されていることだろう。
日本人は子弟教育を最優先に考え、ブラジルの厳しい環境下でも教育に投資した。日本においては言葉の壁もあり、子弟教育は大きな課題である。しかし、将来を見据えて、教育の重要性を訴えたい。折角双方の文化や習慣を学ぶ機会があるので、在日ブラジル人は日本語を学ぶことで、その文化・習慣を理解することが出来、更には日本に残っても、ブラジルに帰っても、如何なる選択であっても人生のプラスになることに間違いない。日本で生まれ、日本で教育を受け、日本の社会で活躍しているブラジル人も増えている。更にはブラジルとの関係強化にも尽力されている。このようなロールモデルがもっともっと増えていくことを期待したい。』
イシ武蔵大学教授の講演
続いてイシ教授は、1990年の出入国管理法改正により、多くのブラジル人が来日して以降の33年を振り返り、以下概要の講演をされました。
『日系ブラジル人の本邦就労が開始され、多くの日系ブラジル人が来日した。今年で在日ブラジル人コミュニティーは33年を迎え、最盛期には30万人を超えた。最初は数年のつもりで懸命に働き、お金をため、帰国した者もいたが、他方で、日本で家族を築き、あるいは思うように貯金が出来なかった等の理由から、日本に定住するかブラジルに帰国するか迷った者も少なくない。また、日本定住を選択した場合でも、ブラジルへの思いが募り、その心情を唄った曲がある。この曲のタイトルは“De cá seguindo”(DEKASEGUIの単語をもじったもの)で、日系ブラジル人カルロス・ミヤザト氏が結成したグループ(Kaisha de Música)によってプロデュースされた楽曲である。
今もこの二つの気持ちの狭間に揺れ日本で生活するブラジル人は多い。
一方で、東南アジア等からの外国人が増える中、ブラジル人は何時までも重宝される訳ではない。これからのブラジル人は、チャンスを掴めるよう常に備える必要がある。日本語を学び、文化や習慣を理解し、教育もしっかり受ける必要がある。また、在日ブラジル人コミュニティーも高齢化しており、“老後の生活”や“死”について真剣に考える時期が来ている。最近では特に日本人との共存がトレンドになっているが、子弟の教育を重視し、後世にレガシーを残すことを考えなければならない。
現在、日系4世の査証について議論する有識者専門会議に自分(イシ教授)も参加しているが、30年前の問題が繰り返されないよう、日本とブラジル両国民が上手に共存できる社会を目指すことが肝要である。それにはあらゆる分野で、レベルで、より良い社会を作るために考える必要がある。近日中に、4世の査証に関するパブリックコメントが予定されている。是非皆さんも意見を投稿して頂きたい。』
イペーの植樹
講演の後、太田市上小林町の(株)山海(造園・環境事業)の広大な敷地内の一角にブラジルのシンボルであるイペーの木を2本植樹しました。
山梅社の山田忠雄会長(80歳)は、1985年、当時の群馬県議員に同行してブラジルを初訪問。以来、15回以上訪伯し、様々な日系施設に寄付をして来られました。1992年にリオデジャネイロで開催された地球環境サミット(ECO92)を好機に、アマゾンの熱帯雨林の重要性を認識、パラー州ベレン市の郊外に540ヘクタールの原生林の土地を購入、「群馬の森」を設置、環境事業を展開されました。
今日でも群馬県内の在日ブラジル人支援活動を積極的に行っておられます。
今回は、日本人移住115周年と在日ブラジル人コミュニティーの33周年を記念して、2本のイペーが植樹されましたが、日本の気候でも成長するよう、約3年間かけて苗を育てられました。丹精込めて育てられたこのイペーのように、日本とブラジルの関係がより良い形で花開き、ますます強固なものになっていくよう願いが込められました。