原田 裕 氏
(前・日本ブラジル中央協会監事)
2023年7月

ブラジル滞在時のエピソードについては、既に数多くの方々が寄稿されているので、今更私が?という思いもありました。しかしながら、学生時代はポルトガル語にもスペイン語にも全く無縁であり、1977年に東京銀行に入行した後も、それらの語学を研修生として集中的に勉強する経験を持たなかった私のブラジル滞在は、結果的に、計3回、通算20年に及びました。若い頃、ブラジルとこのような長い付き合いになるとは、全く予想すらしていなかった私の体験をお伝えするのも、強ち無意味ではないと考えるに至り、書いてみることとしました。

【一回目】ブラジル東京銀行(1987~1992)

初めてのブラジル派遣の内命を受けたのは入行10年目、東京銀行本店の営業第二部(石油元売り・精製および探鉱・開発などエネルギー関連企業への融資を担当)勤務の時でしたが、“なんで私がブラジルに?“というのが偽らざるホンネであり、まさに青天の霹靂でした。ただ、仕事では既にブラジルとの関わりがあり、営業第二部の前に在籍した国際投資部(国際シンジケートローンやサムライ債などの投資銀行業務を担当)において、1982年に顕在化したラテン・アメリカ諸国の累積債務問題を背景とする債務繰り延べの実務を担当したことが、ブラジルに行くきっかけだったと思っています。

赴任後の最初の難題はもちろん言葉で、とにかく、ポルトガル語はゼロからのスタートだったので、文字通り、七転八倒の毎日でした。当初2年間は、ブラジル東京銀行のサンパウロ本店ではなく、サルヴァドール支店勤務でしたが、思えば、サルヴァドールでの2年間は、その後の私のブラジル生活の原点でした。ご存知の方も多いと思いますが、サルヴァドールは、サンパウロから1,500キロ北東に位置する大西洋に面した風光明媚な港町で、リオ・デ・ジャネイロとは違うタイプのカーニバルも有名です。16世紀に、ポルトガルがブラジルを植民地支配するための総督府を置いたこの町は、ブラジルの古都であると同時に、アフリカ伝来の黒人密教とカトリックが混然一体となったユニークな文化が今も息づいており、私と家族にとって、終生忘れられない思い出の地となりました。

その後サンパウロ本店の審査部に移りますが、日本がバブルに酔い痴れていた1980年代末期のブラジルは、まさにハイパーインフレの絶頂期でした。インフレを抑えるため、政府は様々なショック療法(物価・賃金・為替凍結、デノミ等。)で対処しようとしますが、何れも奏功せず、企業の財務内容は疲弊するばかりで与信審査は困難を極めました。最も強烈なショック療法は、1990年3月に導入された、法人及び個人の預金残高の80パーセントを凍結したコロール・プランでした。この政策によって、企業の資金繰りはいきなり逼迫を余儀なくされ、前年まで好業績だった企業も含め、和議・倒産が続出。Gazeta Mercantilの和議・倒産情報欄を、”どうか取引先の名前が掲載されていませんように”と祈りながら見る毎日が続きました。

一方、当時既にブラジル東京銀行は、証券業務の展開も可能な『総合銀行』の免許を取得していたので、審査部の次に所属した資本市場部では、債券の引受、株式投信の組成・販売など、日本では経験できない業務にも挑戦することができました。さらに、ブラジル国営企業向ローンの株式転換によって民営化へ参加したり、取引先のユーロ・米国市場での起債による資金調達を、ブラジル・カントリーリスクを取らずにアレンジしたり、東銀ネットワークのサポートを得て、幾つかの興味深いディールを実現することができました。

 

【二回目】ブラジル東京三菱銀行(1998~2004)

2回目のブラジル勤務開始は1998年末。1994年に導入した『レアル・プラン』によってハイパーインフレを沈静化させたカルドーゾ大統領の二期目がスタートする頃でした。インフレが収束したためか、ブラジル全体が落ち着いてきたように見えましたが、1997年のアジア通貨危機、1998年のロシア危機の荒波からブラジルも逃れることはできず、1999年1月には、レアルの切り下げを伴いつつ変動相場制へ移行します。一方、2回目勤務の大半は現法管理部門の責任者としての仕事でしたが、合併後のスリム化・効率化及び事務管理体制の高度化といった重い課題と格闘する日々が続きました。

中でも最も頭を悩ませたのは、『ハイパーインフレ時代の政府のショック療法によって預金金利が強制的にカットされたので、本来得られるはずの利息収入が大幅に失われてしまった。ついては、その差額部分をショック療法発動時点に遡って複利計算の上、全額返還せよ。』という預金者による民間銀行を相手取った訴訟(タブリッタ訴訟)でした。民間銀行としては、すべてブラジル中銀の規定通りに対応したにも関わらず、それが訴えられるというのは全く容認できない理不尽な話ですが、さらに、あろうことか裁判所がこの訴えを認め、巨額の支払を伴う銀行側の敗訴が、地場銀行・外国銀行を問わず相次ぐという事態が発生。ブラジルの底知れぬ怖さを実感しつつ、日夜、弁護士との協議に追われました。

2回目勤務の印象的な出来事としては、2003年3月、サンパウロで開催された第10回日本ブラジル経済合同委員会のために来伯した経団連ミッションと一緒にブラジリアに赴き、就任早々のルーラ大統領を表敬訪問したことが挙げられます。ご存知の通り、ルーラ氏は、ブラジル貧困層出身の労働組合リーダーとして絶大な人気を誇る左派政治家ですが、2002年、4回目の大統領選挙挑戦で漸く当選を果たしました。選挙戦では、『IMF,くそ食らえ!』的な過激な発言が多く、『ルーラが大統領になったらブラジルの対外債務問題が再燃するのでは?』との心配から、金融市場は、一時、大混乱しました。しかしながら、実際には、カルドーゾ前政権のオーソドックスな経済政策を踏襲したのでその心配は杞憂に終わり、低所得層へのバラマキ政策とも相俟って、支持率は、80パーセントを超えることもありました。

 

【三回目】南米ミツトヨ(2005~2013)

3回目のブラジル勤務は、精密計測機器の総合メーカー(株)ミツトヨへの、銀行斡旋による再就職に伴うものでした。同社のブラジル現法である南米ミツトヨは、サンパウロ近郊のスザノ市に工場があり、着任当初は、工場の生産管理や在庫管理など、銀行には無い業務に新鮮な気持ちで挑戦しました。

しかし、ここでも新たな試練が待ち受ていました。南米ミツトヨ着任から約1年後、本社で外為法違反事件が発生したため、従業員のコンプライアンス意識改革と内部管理体制の再構築が経営の最重要課題となって、この事件の再発防止対策の現法責任者に私が指名されたためです。

当時私は、財務、経理、システム、法務など現法の管理部門全域を統括する立場でしたが、まず、『コンプライアンスとは何か?』という従業員に対する基礎教育から始め、本社から矢継ぎ早に送られてくる膨大な通達やマニュアル類のポルトガル語への翻訳と従業員への説明など、かなりの力業を伴う毎日が続きました。

一方、この3回目の勤務では、それまでに経験しなかった怖い思いが2回ありました。一つは、高速道路で5台の車が関係する玉突き事故に巻き込まれたことで、幸い、事故の原因を作った車(トラック)の衝突時のスピードがあまり速くなかったので、怪我はありませんでしたが、私が運転していた車は前も後ろもかなり損傷しました。もう一つは、サンパウロの自宅近くのイタリア料理店で夕食中、三人組のピストル強盗に遭遇したことです。もちろん、抵抗せずに黙って財布を渡したので、撃たれることもなく無事でしたが、サンパウロに長く住む日系一世の友人によれば、ブラジル滞在20年でその程度ならまだマシな方、とのことでした。

 

【おわりに】

 以上の通り、ブラジルでの20年はエキサイティングかつスリリングであり、仕事ではかなり鍛えられました。今年、3回目の勤務から日本に戻ってちょうど10年になりますが、言葉を忘れないために5年前から受講している日本ブラジル中央協会の隔週土曜日のポルトガル語講座や同協会による各種情報提供、セミナー、イベント等を通じて、ブラジルの動向には常に注目しています。

この10年間、本当に色々なことが起こりました。ブラジルは、政治も経済も振れ幅が大きく、国内的には、引き続き、治安、インフラ、税制等の難問が山積していて、さらなる自助努力が必要ですが、国際的には、今や、”グローバルサウス”の雄であるとともに、地球温暖化問題への貢献が期待される存在でもあり、国際社会におけるプレゼンスはさらに大きくなりつつあります。

一方、戦前からの日本人移住者のお陰でブラジルに根付いている日本に対する強い信頼は、進出日本企業にとっての大きな味方であり、日本はブラジルにもっと目を向けるべきという私の思いは、ブラジルを離れてからもさらに強くなっています。

これからも、様々な機会を通じて、ブラジルの色々な分野のフォローを続けたいと考えています。