執筆者:田所清克
(京都外国語大学名誉教授)

アマゾンの風物詩 41 -改めてマンデイオカ(mandioca)について- ①

 

トウダイグサ科(euphorbiaceae)の草本状の灌木であるマンデイオカは、ブラジルの植物全般に明るい橋本梧郎氏によれば、高さは3メートルに達し、根茎は塊根状に長く肥厚し、1株から10数本四方に張り、一年でへいき5km、三年目には20kmにも達するらしい。[ブラジル植物記–身近な有用植物の知識–, pp.74-80.]

日本名はキヤツサバ、タピオカノキ、イモノキ、マニホツトノキと呼ばれている。外皮部に有毒成分たる青酸を生じる配糖体フアセオルナチンを含むものもある。

毒の成分を有する外皮部を取り除き、水洗いしたり蒸せば毒はとれる。サツマイモと同じく生のイモは澱粉を含んでいる。そのイモの外皮を剥いですり潰し沈殿したものを、水洗いした後で天日か火熱すれば、純白の粉、すなわちタピオカ澱粉ができる。これをポルヴイーリヨ(porvilho)と言い、食材として多様に用いられる。インディアオの常食で、貧しい住民には基本食ともなっている、フアリーニヤ•デ•マンデイオカは、すり潰したイモをそのまま乾かしたものである。

ちなみに、それにバターあるいは豚脂で炒めたものはフアローフア(farofa)と言う。これには通常、卵や肉類が加えられる。一方、タピオカ澱粉をこねて、丸いせんべい状に平たくしたものは、今でも奥地住民の常食になっているのがベイジユー(beijú)である。

乾かした根茎はアルコールもしくはブタノール発酵の原料になるばかりか、澱粉を取った粕は家畜の飼料にもなっている。

アマゾンの風物詩 41 –改めてマンデイオカについて語る– ②

       

南米の先住民たちは、ジャガイモ、トウモロコシ、カカオ、トマト、ピーナッツといった野菜や果物を自らの食料として家庭栽培していた。マンデイオカもしかり。

彼らは毒のあるマンデいオカ•ブラーヴア(mandioca brava)から毒を取り去る術を知っていたのである。

前にも触れたが、マンデイオカとフアリーニヤはインディオはむろん、カボクロや地域住民にとっては日々のメニューでもあった。

マンデイオカは搾られふるいにかけられた後、土かまどの上の鉄製の大鍋で焙られるのである。

絞ったmandioca bravaからは液体が流れ出る。この有毒の汁を飲めば、あの世行き請け合いである。 タタカー(tatacá)のような地域の郷土料理に欠かせない、黄色の汁は、その液体を1時間あまり沸騰させて出来上がる。

farinhaを作る際に、根茎をけずり、圧縮するのは伝統的に女であり、大鍋で煎るのは男のようである。

Centro Cultural Palácio Rio Negroに行けば、そうしたfarinha 生産の行程を見ることができる。

アマゾンの風物詩 42 –アマゾン探検の先駆者であるブラジル人博物学者 :Alexandre Rodrigues Ferreira—

 

エクアドルのキトの総督であったスペイン人Gonçalo Pizarroが、1540年にアマゾン探検を試みた最初のヨーロッパ人であった。

ブラジル人でアマゾン探検を実施した人物となればおそらく、Alexandre Ferreira だろう。が、このことについては、存外知られてはいない。彼は博物学者として探検隊を率いて、9年間に亘る”哲学の旅” (Viagem Phylosophica)と称して39300kmアマゾンを踏破している。そして、動植物相はもとより、そこに居住するインディオの生活様式の有り様、地域特有の風土病、はてはポロロカ(pororoca)などの自然現象をつぶさに観察して記録に残しているのである。しかも、魚類、鳥類、両生類などをデザインし、そうした貴重な見本をリスボンに送っている。

1756年バイーアに生まれたFerreira は、政府の派遣留学生として1770年コインブラ大学に出向き、そこで法学、数学、自然史を学ぶ。卒えて2年後には大学で教鞭をとるようになる。

当時の海外領土、海軍省の大臣であったMartinho de Melo e Castroが、あまり知られていない地域への学術探検の必要性を女王マリアI世に進言すると、その構想は受け入れられ、早速探検隊の編成が行われるようになる。

かくして、Ferreira は27才にしてアマゾン探検の隊長に任命される。1783年、探検隊の船がベレンに接岸、翌年からは文字通りの学術探検が始まるのである。

この探検も1750年のマドリー条約がポルトガルとスペイン間で交わさなければ、実現しなかったであろう。これまでのトルデシリヤス条約が打ち破られ、アマゾンへの侵入が可能となったからである。とは言え、スペインとポルトガルとの間のアマゾン森の境界は依然として曖昧なものであった。

ともあれ、アマゾンで収集した動植物の大量の見本、記録、デザインなどは遺失することもなくポルトガルに送られた。しかしながら、1815年に返還されるまで、アマゾンの貴重な見本や資料等は、ナポレオン軍のポルトガル侵入によって略奪される悲劇を被るのである。

アマゾンと言えば、Langsdorffs、Eckhouts、Martiusといった著名なヨーロッパの探検隊員がいるが、Alexandre Ferreira も特筆大書すべき、ブラジル人のアマゾン探検家に位置づけられる。

アマゾンの風物詩 43 –北部地域の典型的な民衆による祭典– ①

 

ブラジルのなかでもっとも広大で、しかも、大部分が熱帯雨林に覆われていることもあって人口が希薄な地域であるにもかかわらず、これまでにも断片的に言及したように、民俗学の観点から興味をそそる事象が少なくない。

民間伝承、神話の類いはその一例である。かくも豊かに存在するのは、この地の文化に与えた多民族の影響があるからのであろう。事実、北部アマゾン地域は、インディオはむろん、ポルトガル人、黒人などからなる多民族社会である。加えて、民俗文化の豊かな北東部からの人の移動もあり、結果として、民間伝承的に人を惹き付けてやまない、多様な宗教的儀礼、祭典などが生起している。そうした事例を次の回に垣間見ることにしたい。

アマゾンの風物詩 43

  –北部地域の典型的な民衆による祭典– ②

 

すでに紹介したParitinsのBoi-bumbá のように、この地域には数多くの民衆の祭典がある。その大半が特定の民族文化もしくはいくつかの民族文化が融合したものや、宗教に根差したものと言える。

Círio de Nazaré、Marujada em Bagançaなどはその典型かもしれない。

中でもcarimbó、lundu da ilha do Marajó、retumbão、marabaixoのようなものは、典型的な踊りとみなされる。例えば、夜ともなればマラジヨー島では、弦楽器、太鼓(atabaque)などの打楽器、フルートといった異国情緒を誘う楽器が繰り返し流れ、carimbó の祭りを盛り上げる。

カリンボとはパラー州の典型的な踊りである。微笑みを浮かべて踊るところに特徴があり、婦人は艶やかなスカートをまとい、対する男性はマラジヨー島独特のシャツを身に付けて婦人の周りを囲みながら、双方ともに軽快に踊るのである。

他方、アフリカ出自のルンドウは、愛欲の世界に誘う、男から女へのメッセージの高いものを象徴化した踊りとも解される.ですから、男は絶えず動物の雄よろしく女(牝)の周りを回って踊る。踊りは女が相棒を” 支配•征服 “することで終わり、女は相棒の男の頭の上に自分のスカートをかざす。

見るからに官能的な踊りであることから、ヴアチカンは禁じたのであるが、再び隠れてするようになった。この踊りを見たい人は、マラジヨ島の主要都市であるSoureもしくはSalvaterraである見ることができる。

ベレンの中心部でおこなわれる、150万人の信者による360メートルの綱に御輿をつけた7時間におよぶナザレーの行列であるCíŕio de Nazaréもこの地最大の祭典の一つであるが、私は実見したことがない。従って、説明を避けたい。祭りが終るとパラー州の人たちは、tucupiや豚肉、farinhaを伴った料理を食べるそうだ。

 

アマゾンの風物詩 44 –インディオの儀礼: クワルプ(quarup)—

 

通過儀礼(ritos de passagem)も含めて、アマゾンに一番居住しているインディオによる儀式は枚挙にいとまがない。私などは、インディオの儀礼といえば、Antonio Calladoの手になるQuarupがすぐさま目に浮かぶ。Calladoの作品は、シングーに居住する先住民の間で崇拝される、9つの部族の偉大な英雄であり神で最初の人間でもあるMavotsininの社会、宗教的な儀式と梗概とはいささか異なるものになっている。がしかし、ともあれ、このクワルプは本来、死者に対する敬意を表する、3日間の儀式となっている。儀式を通じて死者を蘇らせようとするものである。

 

死者の死を嘆き悲しんだあと、Hu-ka Hu-kaと呼ばれる格闘技がジエニパポやピキの油でボデイペインテイングした2つの集落の首領たちの間で始まる。周りには500名以上のインディオが声を張り上げてけしかけたり、声援を送る。シングー居留地におけるこの2つの集落の間の争いはいわば、象徴的な擬似戦争ともいえるものである。ちなみに、神話によると、Mavotsininは、死者を蘇えらせるためにクワルプの3本の幹を集落の中央の広場に建て、鳥の羽根で飾る。そして、アグーチ(cutia)とカエル(sapo-cururu)と共に唄うの

 

概括: 悠久で神秘的なアマゾン

 

これまで断片的ながらアマゾンについて論じてきた。この法定アマゾニア(Amazônia Legal)を含む広大な熱帯樹林と長大なアマゾン河を併せ持つ北部地域に惹かれるのも、その持つ神秘性が故だろう。事実、ブラジルの作家のなかでも、いかにアマゾンが神秘性に充ちているかを作品に残した、Gastão Luís Crulsのような作家もいる。Amazônia Mistériosa [『神秘的なアマゾン』]はその好例。が、それだけではない。生物多様性に富んでいることもその一つ。このbiodiversidade についてはこれまでにも触れている。

 

がしかし、アマゾンについて必ず論及すべきところを、私の認識不足で遺漏した事象も少なくないと思われる。気づいたものがあれば、最後に補記のかたちで言及するつもりである。まだまだこのアマゾンについては書きたいことが山ほどあるが、きりがないのでこの辺りで打ちきりにしたい。

一口にアマゾンと言っても、地形や水域は場所によって違う。しかしながら、どこであれ一様の生態系を呈していることには驚かせされる。アマゾン流域には多くの淡水魚がいて、食材として最高である。tambaqui などのそうした魚を味わいたい向きには、Manaus にあるPeixe de Cantadaの店をおすすめしたい。

 

アマゾンはその所在する州都の影響力からいつて、写真のようにAmazônia OrientalとAmazônia Ocidental に分割され得ることも知っておこう。かつての緑の地獄で、宇宙論的な世界というか自然に打ち克ちえない存在であったが、森林伐採などによって地球の心肺的役割に赤信号が点りつつある。気候温暖化の影響は、アマゾン河川が干しあがっている状況をテレビは報じている。

 

自然は人類が存在しなくても存在するが、人類は自然なくして存在しないことを、改めて私たちは認識すべきであろう。