会報『ブラジル特報』 2011年1月号掲載
進出企業シリーズ第10回

                        岸和田 仁(ニチレイブラジル農産(有)取締役)


1956年、ブラジル沖のマグロ処女漁場に投入した「第13海幸丸」は、7月から11月までの三航海で490トンをレシーフェ港に水揚げした。この大漁に狂喜したのは、会社よりもブラジル政府であった。というのも、内陸ノルデスチ(東北ブラジル)のセッカ(旱魃)が深刻化し、旱魃難民が社会問題化していたからであり、この水産蛋白源が食糧難への解決案の一つだと判断したブラジル政府は、マグロ船10隻の操業許可を即決したのであった。

 こうして1957年1月、INBRAPE(ブラジル水産冷蔵)をペルナンブーコ州レシーフェに設立、マグロ事業が始まり、マグロ缶詰がサンパウロ市場に出回ることになった。だが、漁獲は悪くないのだが事業経営としては赤字の連続となり1965年にはマグロ漁業は中止、さらには新規開発事業のロブスター漁や赤物(タイ類)漁からも1969年撤退した。

 一方、経営難に陥っていた1911年創業の捕鯨会社COPESBRA(北伯漁業)の引き受けを債権銀行より要請され、1958年よりパライーバ州にて捕鯨事業を開始する。それまでの鯨油一本槍から、シャルケ(塩干鯨肉)や肉粉、骨粉の開発による鯨体完全利用体制を確立し、地元市場への低廉な蛋白源の供給(牛シャルケの半値で販売、年間牛1.5万頭分の数量)を事業の根幹とした。冷凍鯨肉対日輸出は70年代後半に開始したが、ブラジルの最貧州の一つでの雇用創出(年間400名弱)、外貨獲得、安価な鯨肉供給、という三位一体事業は、1985年を最後に幕を閉じることになる。1982年IWC(国際捕鯨委員会)の商業捕鯨禁止決議をうけ、1985年、国会で捕鯨禁止法案が通過したからである。

 さらなる新水産資源開発として取り組んだのが、アマゾン河沖のエビであった。1969年COPESBRA社はベレン支点を開設し、エビトロール船3隻をもって挑戦を開始した。世界有数のエビ資源の存在が確認できたので、自社ばかりか複数の同業他社の漁獲物をも加工する拠点としてAMASA(アマゾナス食品加工)工場を1979年に竣工、年間1,500〜2,000トンをコンスタントに扱う事業に成長した。ところが、国際市場における安価な養殖エビの急増と石油高騰に伴う漁撈コストの急上昇により経営環境は暗転、企業型漁撈からオーナー型漁撈への切り替えはじめ、必死のコスト削減努力の積み重ねでなんとか切り抜け、今日に至っている。そしてアセロラ事業。この驚異的なビタミンC含有量を誇る熱帯果実に出会ったのは1982年。捕鯨代替事業を必死で模索する過程で偶然ひっかかってきたものだが、まさに「クジラがアセロラを生み出した」といってよい。

<写真:ベレンの AMASA エビ加工場>

   本社のアセロラ製品開発が1986年から本格化したが、並行してブラジル側の原料供給体制を改変していった。まず、既存の加工冷凍設備の活用を志向したが、パラ州やパライーバ州は栽培適地ではないとの判断を下したため、熱帯灌漑農業の適地ペルナンブーコ州ペトロリーナ地方での契約栽培と加工場設置という選択を決断した。1991年にNIAGRO(ニチレイブラジル農産)を設立、2007年には濃縮・透明化ラインを増設し、年間1.5万トン程度のアセロラ果実を加工・輸出(欧州と日本向け)している。

 以上が、53年に及ぶ、ブラジルにおけるニチレイ事業概略であるが、東北ブラジルと北部ブラジルの地域社会に根付いた事業展開が特徴といえよう。