会報『ブラジル特報』 2011年月号掲載
ブラジル日本商工会議所 創立70周年に当たって

                          後藤 隆(第8代会頭)


会議所は1940年4月、地元日系雑貨輸入商を母体としサンパウロ日本商業会議所が発足、会員数51社。41年8月、ブラジル国の参戦により会議所は一時活動を停止、51年3月、サンパウロ日本政府在外事務所(総領事館の前身)野崎所長の勧めで再発足した。会員数74社。その後、総領事館と連携し平和条約の締結を待たず日本ブラジル貿易と決済の暫定協定の締結と正常化に努めた。

 1955年就任のクビチェク大統領は「50年の進歩を5年間に」のスローガンで外資導入と輸入代替国産化奨励策を促進したが、これに呼応して日本の商社、メーカーの進出が急速に拡大した。会議所は名称を「ブラジル日本商業会議所」、さらに「ブラジル日本商工会議所」に改め,定款も日本の商工会議所の定款をモデルに刷新し、組織体制の充実を図った。ちなみに60年当時の正会員数は84社であった。

 ブラジルは60年左傾大統領の就任後の混乱を収拾し、64年3月軍政に移管、秩序維持と中央集権化が進み、65年〜75年はインフレ年率20%、経済成長率10%の奇跡的発展を遂げた。74年には田中角栄首相が来訪、アルミ、パルプ、セラード農業開発の三大ナシヨナルプロジェクトが発足、同年5月には第1回日本ブラジル経済合同委員会が開催され、経団連60社が参加、日本にブラジルブームが到来した。

 会議所の会員中進出企業数は212社に達し、理事会社30社を50社、常任理事7名を13   会議所は1940年4月、地元日系雑貨輸入商を母体としサンパウロ日本商業会議所が発足、会員数51社。41年8月、ブラジル国の参戦により会議所は一時活動を停止、51年3月、サンパウロ日本政府在外事務所(総領事館の前身)野崎所長の勧めで再発足した。会員数74社。その後、総領事館と連携し平和条約の締結を待たず日本ブラジル貿易と決済の暫定協定の締結と正常化に努めた。

 1955年就任のクビチェク大統領は「50年の進歩を5年間に」のスローガンで外資導入と輸入代替国産化奨励策を促進したが、これに呼応して日本の商社、メーカーの進出が急速に拡大した。会議所は名称を「ブラジル日本商業会議所」、さらに「ブラジル日本商工会議所」に改め,定款も日本の商工会議所の定款をモデルに刷新し、組織体制の充実を図った。ちなみに60年当時の正会員数は84社であった。

 ブラジルは60年左傾大統領の就任後の混乱を収拾し、64年3月軍政に移管、秩序維持と中央集権化が進み、65年〜75年はインフレ年率20%、経済成長率10%の奇跡的発展を遂げた。74年には田中角栄首相が来訪、アルミ、パルプ、セラード農業開発の三大ナシヨナルプロジェクトが発足、同年5月には第1回日本ブラジル経済合同委員会が開催され、経団連60社が参加、日本にブラジルブームが到来した。

 会議所の会員中進出企業数は212社に達し、理事会社30社を50社、常任理事7名を13名、事業別委員会と会員全員参加の業種別部会を設け、会議所の組織強化と活性化を計った。その後、二度にわたるオイルショック、国営企業の膨張、財政赤字、さらに82年以降、対外債務返済遅延、IMF支援とともに景気後退、インフレ昂進のスタグフレイシヨンの様相を呈し、85年の民政移管後も財政緊縮、価格凍結、デノミ、さらに預金封鎖などヘトロドクスな施策が連続した。

 インフレは高騰し、89年には年率1765%と破局的事態に突入し、会議所会員は朝令暮改に翻弄され、合弁撤退、人員削減、事業規模縮小など生き残り対策に腐心した。進出企業会員数は90年186社、2000年156社と減退した。

 1995年にカルドーゾ大統領就任、レアル・プランが効を奏し月間40%の破局的インフを年率30%、さらに10%以下へと圧縮し、内需拡大、景気回復と奇跡的に経済は好転したが、日本企業は本国のバブル崩壊による体力低下、対ブラジル不信感から即応できず、トヨタ、ホンダを除き欧米企業に立ち遅れた。ブラジルは労働党ルーラ政権に移行したが、国際金融問題に影響の少ない国として低所得層への生活支援による内需拡大を柱に着実な経済発展を遂げ、BRICsの一員として日本でも漸く見直され始め、企業進出、投資が再燃しつつあり、会議所の会員数も若干増加傾向にある。

編纂を担当したサンパウロ新聞社鈴木雅夫社長による
『ブラジル日本商工会議所70年記録集』(550頁)の
平田藤義事務局長(左)への引き渡し(2010年11月30日)