会報『ブラジル特報』 2012年1月号掲載
【社会・文化】

                                         布施 直佐(ピンドラーマ編集長)



創刊して5年目

 月刊フリーペーパー『ピンドラーマ』は2006年6月に創刊準備号を発刊し、以来2011年12月時点で66号目(ちょうど5年半)となりました。創刊当初はあちこちで「どうせ3号でつぶれるだろう」と面と向かって言われたものですが、しぶとくコツコツと発行し続け、今ではサンパウロ在住の皆様に広く知られるようになりました。

 雑誌名の「Pindorama」とはブラジル先住民のトゥピー語が起源で、「椰子の国」という意味で、現在のブラジルに当たる地方を指しています。そもそもこの雑誌を作るようになったのは、弊社コジロー出版社長の川原崎(ブラジル在住19年)が、以前からブラジルでちゃんと定期的に発行する雑誌を作れば充分商売になると思っていたところ、ちょうど私がブラジルに引っ越してきたので、一緒にやることになった次第です。川原崎と私とは高校時代の同級生(2人ともサッカー部に所属していました)で、付き合い始めてかれこれ30年近くになります。彼がブラジルに移住した後、日本に一時帰国するたびに友人たちで集まり、飲みかつ語り合ったものです。その際彼はいつも「ブラジルは本当に良い国だ」とブラジルのことを褒めちぎりましたが、ほとんど誰もブラジルに関心を持つものはいませんでした。誰かブラジルに遊びに行ってやらないとちょっと気の毒だと思い、私は 7年前(2004年)、まったく予備知識も持たずに1ヶ月ほど遊びに来ました。グアルーリョス空港のゲートを通り、外の空気を吸った途端に解放感といいますか、異様な身の軽さが全身を包み、一瞬のうちにブラジルに惹きつけられました。その後1ヶ月、滞在している間も不快な経験は全くなく、帰国する際には心の中で「ブラジル移住」は規定事実となりました。
 日本で1年働きお金を貯め、2005年に引越し、と超スピードで生活環境が変わり、こちらに来た後、 1年ほどの準備期間を経てピンドラーマの発行にこぎつけました。創刊準備号が出来た時には、雑誌の編集などやったことがない素人でも(日本では予備校の講師をずっとやっていました)、やれば出来るものだと、ブラジルの大らかさにあらためて感謝いたしました。

Pindorama” 2011年12月号表紙

ブラジル紹介の総合誌

 雑誌のコンセプトは「ブラジルの社会・文化全般を紹介する総合誌」ということで、観光・スポーツ・料理・音楽・文学・政治・経済・移民史等、できるだけ幅広いテーマの記事を毎回掲載するようにつとめました。幸い、発行当初から人づてに執筆者の方を集められ、予想以上の内容のものが出来ました。
 この原稿を書くために昔のバックナンバーを拾い読みしていますが、中でも小林哲彦先生の「鍼灸小話」のことが懐かしく思い返されます。小林先生は天才肌の針灸師として一部に知られておりましたが、記事をお願いしたところ、快諾され、毎回私が診療所にお邪魔して先生の話をまとめることとなりました。
 顔面麻痺のため目を閉じることも出来ない女性、生まれてから手足を動かすことも言葉を発することも出来ない3才の子供等、様々な難病を治療した経験を素人にも分かりやすく解説され、ブラジルにこんな方がいるのかと畏敬の念抱きながら話をうかがいました。毎回記事の最後に小唄やことわざで落ちをつけるようにされ、落ちを話された後に「いいだろう、この落ち?」と得意そうに笑われたのを思い出します。
 たとえば、「皆様もほいきたカーチャン、はいきたカーチャン、と声をかけあわせて人生をかっぽしていただきたいものです」という具合にユーモラスに読者を力づける落ちが多かったようです(落ちの部分に力が入りすぎて、落ちが記事の半分以上を占めたこともありますが)。また、認知症は鍼灸で簡単に治せる、治療の様子をNHKに取材に来てもらいたいと何度か話をされ、そのことを記事にも書かれていましたが、それが実現する前に惜しくも一昨年先生は物故されました。
 連載が終了した記事の中でもボサノヴァ歌手臼田道成さんの「Michinariのボサノヴァと私」はボサノヴァを独自の視点で語り尽くした渾身の記事で、_今読み返しても、「(ジョアン・ジルベルトの音楽が)僕らを夢想境に誘ってくれるのは、やはり彼の音楽が美しい『宇宙の調和』を奏でているからであろう」、「ジョビンの曲の前で歌手達は、技術の武装を解き、ジョビン芸術の美の単なる具現者に甘んじなければならない」等、キラリと光る言葉が散りばめられています。これほどボサノヴァを深く論じた文章は世界でも稀でしょう。

多彩な執筆陣

 ブラジル社会に関しては、おおうらともこさんによる「各国移民レポート」という連載があり、ポルトガル、スペイン、ポーランド、ハンガリー、リトアニア、ナイジェリア等、各国別の移民の歴史と現在をレポートし、移民社会ブラジルを多角的にあぶりだそうとしています。何度か取材に同行しましたが、そのたびに感じたことは、どこの国の人々も移民して定着するまでにはいろいろと苦労をしていますが、その苦労の内容は国によって大きく違うということです。ナチスに追われて亡命したポーランド人、旧ソ連の弾圧を逃れたリトアニア人、内戦で荒廃した国土を捨てたレバノン人…。
 普通に暮らしていると全て「ブラジル人」とひとくくりにしてしまいがちですが、バックボーンをのぞいてみるとそれぞれ別個の「歴史」を背負って生きていることが分かります。松本浩治さんの「移民の肖像」は日系移民の方々の半生を毎回一人ずつ、聞き書きの形で紹介するコ—ナーで、中身の濃い、読み応えたっぷりの連載です。登場する方の多くが70歳を超えており、子供の頃に日本で戦災の被害に遭った記憶を生々しく持っています。「ものすごい風と熱気で、家はぐるりと焼かれて逃げ道がなかった。私たちは何とか逃げることができたけど、20歳前後の若い人たちは火を消さないかんということで、多勢の人が亡くなった」(大阪空襲経験者の奥田昭二さん)。「自分はその当時、年齢も若く、まだ体力もあったから生き延びることができたが、野菜不足のために夜になると鳥目で見えなくなる人もいた」(シベリア抑留経験の沖縄県人、松本實隆さん)。
 岸和田 仁さんの「ブラジル版百人一語」は古今のブラジルの著名人から百人を選び、彼らが残した言葉を通じてブラジルという巨人を描き出そうとする壮大な試みです。「ブラジルは、キックの魔術を行うことで、このドリブルの“科学にして芸術”に聖職として専心する国民という宿命を担っている」(人類学者ロベルト・ダ・マッタ)。「ブラジル人はその真心で世界の文明に貢献出来るであろう」(歴史学者セルジオ・ブアルケ・デ・オランダ)。「実際のところブラジルはまさしく極西であり、西欧文明のリーダーシップを受け継ぐ稀有な天賦の才に恵まれた極西であるのに、われわれはそのことに気付いていない」(映画監督カルロス・ディエゲス)。

ブラジルはネタの宝庫

 読者の方から、「記事のネタが切れることはないですか」と尋ねられることがありますが、ブラジルを知れば知るほど日本に紹介されていない宝物がざくざくと出て来て、「これもあれも紹介しなければ」と嬉しい悲鳴が出るほどです。私は美術が好きで美術館によく行くのですが、「これはすごい!」「これほどの芸術家がなぜ世界に知られていないのか!」と思わず叫びたくなるような天才達と出会うことがよくあります。
 ブラジル人は外国に自分の文化を発信することにそれほど積極的でないようで、ごく一部の芸術家を除けば、自分の作品を世界に知らしめたいという欲求そのものが無いのかもしれません。たとえば、フランシス・ベ—コンの絵を写真で実現しようとしたEdouard Fraipoint、人間の消滅を版画で表そうしたLuise Weiss、自分の母親が死に行く様子を9枚のデッサンに描いたFlávio de Carvalho、バナナを用いてブラジル社会を描いたAntnio Henrique Amaralらの作品は日本で展覧会を開けばかなりの衝撃を美術界に与えること必至でしょう。
 ブラジルの音楽・文学・映画等の分野も日本語による紹介は残念ながらごく一部しか行われておりません。かつてオウロ・プレートで見つかった金はあっという間に採掘され消滅してしまいましたが、ブラジル文化の鉱脈はまだまだ無尽蔵といえるくらい豊かに埋まっているようです。今後も日本人ガリンペイロとして、この鉱脈の採掘を『ピンドラーマ』を通して続けて行くつもりです。

ピンドラーマは日本の方も定期購読可能です(有料となります)。
   お問い合わせ ed.kojiro@gmail.com_