会報『ブラジル特報』 2012年3月号掲載
文化評論
                                         岸和田 仁(協会理事)



 ペルナンブーコ州レシーフェ市レシーフェ区。ブラジルでも最も古い街の一つであり、港に沿って官民の関連施設が並んでいる。海軍港湾管理局、船舶代理店、銀行、レストラン、バー、沖仲士労働組合支部などなど。元の税関ビルが改装されてモダンなミニ・ショッピングセンターとなっているが、その隣が筆者も愛用するクルツーラ書店(支店)だ。そんな旧市街にあるモエダ通りに、高さ3メートルの彫像が屹立している。一見お笑い芸人風の、その像は、シコ・サイエンスのものだ。ノルデスチ音楽の新潮流マンゲ・ビートのパイオニア的革命児シコが、1997年2月2日交通事故で急死した時、享年わずか30歳であった。したがって、今年は没後15周年となる。

 多くの文人やアーティストを生み出してきたレシーフェには、街のあちこちに彼らの彫像・坐像が設置されている。マヌエル・バンデイラ(詩人)、クラリッセ・リスペクトール(小説家)、ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネト(詩人)、ルイス・ゴンザーガ( 歌手)、マウロ・モッタ(詩人)といった人たちだが、最も新しい12番目の立像がシコで、竣成式があったのは2007年3月だった。すなわち、没後10周年を記念した市の文化事業で、通常の金属製でなく特製のグラスファイバー製だ。

 シコの本名は、フランシスコ・デ・アシス・フランサ。1 9 6 6 年生まれの彼が、バンド「シコ・サイエンス&ナサゥン・ズンビ」のリーダーとして、音楽シーンに登場したのは1 9 9 2 年、代表曲『泥んこからカオスへ』を発表したのが1994年だった。作曲もボーカルもこなしたシコが創始した新潮流はマンゲ・ビートと命名されたが、メロディーとの協調を無視するほどの言葉(歌詞)の連打を激しくアジテートするのが特徴で、聞く者を徹底的に揺さぶりかける。“普通”の聴衆には“ロック風の騒音”にしか聞こえない音楽といわれかねないのだが、そんな音楽活動が、ノルデスチを超えてブラジル全土、さらには米国や欧州へもインパクトを広げることになったのは、その音楽的パフォーマンスもさることながら、その哲学的主張の故といってよいだろう。すなわち、ポルトガル語のマンゲは、植生地理学的にはマングローブのことだが、魚類や甲殻類の幼生期のゆりかごであることから、広義のマンゲは生物多様性の象徴であると同時に文化多様性のキーワードでもあるのだ。

 幼年時代友達とマンゲで遊んでは、カランゲージョ(泥ガニ)やシリー(ワタリガニ)と戯れていたシコは、マンゲの持つ多元性を身をもって熟知していたが、その多様な意味を再学習したのは、『飢えの地理学』で有名な、レシーフェ出身の地理学者・公衆衛生学者ジョズエ・デ・カストロ(1908-73年)の小説『人間と泥ガニ』(1966年)を読んでからである。カストロの知的成果を我が身のものとしたからこそ、自らを「頭脳付き泥ガニ(カランゲージョ)」と命名し、マンゲと泥ガニの有する重要性・多元性をマニフェストしていったのである。


 社会学的にいえば、サンバ、マラカトゥ、ノルデスチのポップ音楽(バイアゥン、シランダ、エンボラーダなど)と米国産のロック、ジャズ、ソウル、ラップ、ヘビーメタルなどとの混合ハイブリット(一代雑種)であり、サトウキビに代表されるモノカルチャー(単一栽培+単一文化)の意味を問い、マンゲの持つ多様性に象徴される多元的文化主義を主張したのが、マンゲ・ビートである、となろうか。

 シコが早世したあとも、「ナサゥン・ズンビ」は音楽活動を続けており、「ムンド・リブレ」、「モンボジョー」、「ファセス・ド・スブルビオ」などのバンドも、レシーフェの枠を超えて活躍している。目をブラジル国外に向けるならば、ポルトガルではテージョ・ビート、ニューヨークではネーション・ビート(リーダー:スコット・ケトナー)が、マンゲ・ビートを継承しているといえるだろう。

 社会学研究者のなかには、このマンゲ・ビート運動を、1922年サンパウロで開始された近代主義(モデルニズモ)、1950年代末から60年代にかけての映画におけるシネマ・ノーヴォ運動、60年代末のトロピカリズモ、などに匹敵する文化運動である、との学説を主張する学者もいる。筆者としては、そこまで断言できる自信はないものの、ノルデスチ(レシーフェ)の有する文化的な革新性と豊穣性を“証明”する事例だと考えている。ノルデスチの歴史は停滞と躍動を繰り返してきたが、シコが始めた音楽潮流もその躍動の一例といってもよいかもしれない。