会報『ブラジル特報』 2012年5月号掲載
【エッセイ】

                                      水野 一 (上智大学名誉教授、協会前理事)



 今年は日本ブラジル中央協会が1932年11月に創設されてから80年になる。顧みれば、日本ブラジル両国関係100有余年の歴史の中で、協会が果たしてきた役割はきわめて大きかったといえるし、まずは協会発展のために尽力してきた方々に対して敬意を表したいと思う。

日本ブラジル交流に大きな役割


 1983年に発行された『協会五十年史-日伯交流の架け橋として』によれば、協会は戦前の創業期(1932~43年)、第2次世界大戦にともなう日本とブラジルの国交断絶による業務停止に見舞われた休眠期(1943~49年)を経て、戦後業務再開のかなった1949年より法人化(社団法人)された1960年に至る10年間の基盤整備期、そして業務が軌道に乗った充実発展期(1960~71年)、その後の飛躍振興期(1971~82年)に区分されるという。

 ところで、私が協会の事業に参加するようになったのは、1970年代後半である。まずラテン・アメリカ政経学会(1964年設立)の会員として協力した『日本におけるブラジル研究-文献目録』の出版である。これは日本ブラジル関係がすでに1世紀近くなり、ブラジルに関するすぐれた調査研究が多数に上るにもかかわらず、これを集大成したものがなく、今後のわが国のブラジル研究の発展のためにも良くないとの認識から出されたものである。
 当時の協会会長は、私の東京外語大時代の初代学長だった澤田節蔵氏である。澤田会長は当時90歳と高齢だったことから辞意を表明、1975年2月末に後任として土光敏夫経団連会長が第5代会長、田付景一元駐ブラジル大使が理事長にそれぞれ就任した。そして土光会長が政府の臨時行政調査会長という要職に就任したことから、1982年5月、田付理事長が後任の第6代会長に選出された。

 確かに、1971年より82年までの12年間は、協会が社団法人としての地歩を固め、飛躍の時を迎えた時期だったといえる。つまり、会員の拡充にともなう会費収入の増大により、事業の一層の充実が図られたし、日本とブラジル間の交流も従来の経済交流中心から文化交流についても数々の実績を残した。いわば現在の協会活動の基礎はこの時期に作られたといえよう。
 私自身にとっても幸運だったのは、協会のまさに“全盛期”に1995年の日伯修好100周年の記念事業の一つとして、『日本ブラジル交流史』の編纂を依頼され、外務省の援助と編集委員および執筆者の協力により、無事1995年11月の記念式典に間に合い刊行されたことである。
 その後、私は当時の永田健太郎常務理事・事務局長と相談の上、お互いに資金を出し合い、広く関係者に読んでもらう目的で、同書のぺーパーバック版を刊行した。その後、協会は2000年代に入り、国庫補助金のカットによる収入減少などにより、事業の縮小を余儀なくされているようだが、近年のブラジルの国際的地位の向上や日系社会の変化にともない、日本ブラジル両国の架け橋としての協会の役割はますます高まっており、新たな飛躍が期待されている。



『日本ブラジル交流史』の公式版 協会で今も販売しているペーパーバック版