会報『ブラジル特報』 2006年5月号掲載

                             市之瀬 敦(上智大学 外国語学部助教授)


「ブラジルサッカーの父は誰か」 こう問われた時、読者の皆さんは誰の名前を思い浮かべるだろうか。ペレそれともジーコ? もっと時代を遡って、レオニダス・ダ・シルバあるいはドミンゴス・ダ・ギアなんていう往年の名選手を思い出す、かなり「通」の方もいるかもしれない。だが、「ブラジルサッカーの父」という名誉ある称号が与えられているのは、チャールズ・ミラーという名前の人物なのである。

いくらブラジルが移民の国だとはいえ、それはあまりにブラジル人らしくない名前である。ならば、19世紀後半、7つの海を制すると同時に、サッカーを世界の各地に伝えたイギリス人なのだろうか。いや、答えはブラジルに移民したスコットランド系鉄道技師ジョン・ミラーの息子となる。ジョン・ミラーはサントスとサンパウロ州のコーヒー農園を鉄道でつないだ人物だ。ジョンはチャールズをイギリスのサザンプトンに留学させたのだが、1894年サントス港で親子が再会をはたした時の会話はこんな感じだったらしい。「それは何だ、チャールズ?」「私の勉強の成果ですよ」「何だって?」「あなたの息子はサッカーのコースを修了したのです」。チャールズは、両方の手にボールを1つずつ持っていたという。それから数ヵ月後、チャールズはサッカーのチームを編成。ブラジル最初のゲームは鉄道会社職員とガス会社職員の対決。こうしてブラジルサッカーの歴史が始まったのである。

とはいえ、すぐにサッカーがブラジル国民の情熱になったわけではない。当初サッカーを敵視する人々もいたし、サッカーを愛好する人も上流階級に限られていた。黒人、混血そして貧乏人は排除されていたのだ。しかしサッカーは階級の枠を越え、ブラジル人全てに愛されるスポーツとなった。しかも、ブラジル最初のスーパースターはアルトゥール・フリーデンライヒという混血の選手だった。彼はペレ以上に得点をあげた選手ともいわれている。

名選手はいたが勝てなかった時代

1930年に始まるワールドカップは、これまで17回開催され、ブラジルはそのすべてに出場している唯一の国である。だがブラジルは、最初から強豪だったわけではない。サンパウロとの対立から、実質的にリオデジャネイロ選抜チームで挑んだ30年大会と34年大会の成績はまったく振るわず。38年フランス大会ではレオニダス・ダ・シルバとドミンゴス・ダ・ギアという2人の名選手を擁し、すでに優勝に値するチームだったが、イタリアとの準決勝を前に選手たちが祝勝会を開くなど油断をし、結局1対2で破れてしまった。ただし、その頃はもうブラジルはスター選手の宝庫と見なされるようになっていた。

第二次世界大戦による中断の後、1950年ブラジルはワールドカップを地元で開催した。当時のブラジルは、まだヨーロッパの強豪国を前にしり込みをするようなメンタリティを持っていたが、勝ち進むにつれ自信を抱き、ウルグアイとの最終戦に勝利すれば初優勝というところまでこぎつけた。だが、ここでまたブラジルの悪い癖が出た。試合の前に勝ってしまうのである。ユーフォリー(根拠のない過度の幸福感)に浸る周囲からのプレッシャーに押しつぶされたのか、選手達は先制点を挙げながらも逆転を許し、国民的な悲劇を喫したのだった。この敗戦で非難を浴びたのはGKのバルボーザとDFのビゴージ。ともに黒人系選手であった。代表チームがワールドカップで敗戦するとアフリカ系の選手が批判されるのは、残念ながら今日まで変わらないブラジルの「伝統」である。

栄光の時代へ

1954年スイス大会は、当時世界最強を謳われたハンガリーの前に屈したが、続く58年スウェーデン大会は、ブラジルにとり栄光の始まりとなった。ジジ、ババ、ジャウマ・サントス、ニウトン・サントス、さらにペレ、ガリンシャというサッカー史に名を残す選手たちを揃えたブラジル代表(英語のscratchに由来するescreteというニックネームを持つ)は、並み居る強豪を攻撃的なサッカーで撃破。決勝戦でも地元スウェーデンを5対1で破り、初の栄冠に輝いた。大会前は寒いスウェーデンでは、アフリカ系の選手は使えないなどという評判もあったのだが、実際はまったく逆だった。なお、スウェーデン代表のユニフォームも黄色であるため、ブラジルは急遽ストックホルムの中心街で青いシャツを購入、それを着てプレーした。この準備の悪さ、いや即興性はブラジルらしいといえば、らしいのかもしれない。

直前の地震で開催も危ぶまれた62年チリ大会では、ペレは活躍できなかったが、代役のアマリウドとガリンシャが大暴れ、ブラジルはワールドカップ2連覇を達成した。これは34年、38年大会を連覇したイタリアに続く快挙である。サッカーの母国イングランドで開催された66年大会はペレが完全にマークされ、ブラジルはグループリーグで敗退。むしろ初出場のポルトガルが、モザンビークからやってきた「黒豹」ことエウゼビオの活躍もあり、3位に入賞するという驚きを見せた大会だった。

メキシコで開かれた1970年大会はブラジルのfutebol-arte(芸術としてのサッカー)がテレビのカラー映像を介し、世界中の人々の前で披露された機会でもあった。ガリンシャはすでにいなかったが、ペレの他、リベリーノ、トスタン、ジャイルジーニョ、ジェルソンなど、ブラジルの名門クラブで背番号10をつける選手を集めたブラジル代表は、彼らのサッカーこそがjogo bonito(ビューティフル・ゲーム)であることを証明。決勝戦では、ジュール・リメ杯の永久保持をイタリアと争い、4対1で下した。こうして、ブラジルが世界一のサッカー大国であることを示すことに成功したのである。

ペレなき時代の苦悩

ブラジルは常に世界レベルのスター選手を輩出し続ける国であるが、ペレが代表を引退した後は長くワールドカップで勝てなくなった。1974年ドイツ大会ではオランダの「トータルフットボール」の前になす術もなく、78年アルゼンチン大会では得失点差に泣いた。82年スペイン大会のブラジル代表はジーコ、ファルカン、ソクラテス、セレーゾという黄金のカルテットを擁し、世界中のファンを魅了したが、イタリアの前に屈した。試合の前に勝ってしまうという悪い癖が、再び彼らの行く手を遮ったのだ。86年メキシコ大会ではフランスと名勝負を演じながらもPK戦で涙を呑み、90年イタリア大会ではマラドーナのパス1本で早い帰国を余儀なくされた。ワールドカップを勝てなくなったブラジルは、自らのサッカーのアイデンティティを見失い、futebol-arteを永遠に失くしてしまったのではないかとさえ危惧された。

再び黄金時代へ

だが、ブラジルは弱体化してしまったわけではなかった。1994年アメリカ大会で、24年ぶりの優勝を果たしたのだ。確かにロマリオとベベトの2トップ以外の選手が守備に専念するサッカーは、魅力に欠けていたかもしれない。しかし、随所にブラジル人らしい高い技術や美しいゴールシーンはあった。サッカーの国ブラジルの誇りが取り戻されたのだった。98年フランス大会もブラジルは優勝候補の筆頭だったが、決勝戦の直前にエース、ロナウドが体調不良を訴え、フランスに一方的に敗れた。ブラジルの弱点を知り尽くしたジダンは素晴らしい選手だが、あの試合ブラジルがブラジルでなかったことも事実である。

そして、2002年日韓共催大会。ブラジルは南米予選で苦戦し、代表チームは国民の批判の対象となった。だが、いざ大会が始まると、ロナウド、リバウドそしてロナウジーニョという「3人のR」の活躍もあり、ブラジルは順当に勝ちあがり、最後はドイツを下し5度目の世界一に輝いたのだった。

1990年代の前半。社会変化とともに、もはやブラジルには、ペレやジーコのようなファンタジーあふれる選手は育たないのではないかといわれた。しかし、現在世界最高の選手であるロナウジーニョだけでなく、さらにカカーやロビーニョといった若く優秀なプレーヤーも現れている。2006年ドイツ大会でも、優勝の最有力候補である。試合前に慢心さえしなければ、それは十分に可能だ。エリック・カントナと一緒にJoga
bonito!(プレイ・ビューティフル)といってブラジル代表を応援しようではないか。
 



   
編集者より 下記著作もご一読をお薦めします。
  
『ポルトガル・サッカー物語』
市之瀬 敦著 社会評論社 2001年 2,100円
    
『サッカーのエスノグラフィーへ―徹底討論!民族とメディアとワールドカップ』
市之瀬 敦・粂川 麻里生編著 社会評論社 2002年 2,100円