会報『ブラジル特報』 2006年7月号掲載

                       
岸和田仁(在ブラジル、レシーフェ)


後に帰化日本人小泉八雲となるラフカディオ・ハーン(1850-1904)とブラジルの代表的社会人類学者ジルベルト・フレイレ(1900-1987)。全く意外な組み合わせのように思われるが、実は関係が深いのだ。

二人は、カリブなかんずくマルティニーク島を通じて繋がってくることになるのだが、最近の緻密なフレイレ研究書がそれを教えてくれる。

日本人にとっては、ハーンといえば、『怪談』、『日本-一つの試論』などを著し、東京帝大英文科講師も勤めた作家として広く知られているが、若き日々は北米のシンシナティーやニューオルリンズでジャーナリストとして活躍すると同時にゴーティエなどフランス文学の翻訳も行う文人であり、1887年から二年間滞在したマルティニークでは様々な民俗採集を行っている。ハーンが単なる文学者ではなく、民俗学者の側面を持っていたことも再評価されるようになっているが、クレオール俚諺集といえる『ゴンボ・ゼーブ』、ニューオルリンズ地方の食文化を記録したレシペ集『クレオールの料理』はじめ様々な民俗文化関係の著書を残している。日本の口承文芸、民間信仰を採集した結果が英文の著作へ結実していることは周知の通りであり、例えば曾孫の民俗学者小泉凡氏は『民俗学者小泉八雲』(恒文社)において学問的な裏付けを行っている。

ハーンは生涯でたった二冊の小説しか出していないが、その『チタ』も『ユーマ』もカリブを舞台にした悲話であり、マルティニークフィールド記録といえる『仏領西インドの二年間』では、当時支配的であった黒人劣等人種論からは全く自由な視点から、カリブの自然と住民の美しさを称え、黒人・混血文化について実に好意的な記録を残している。

この『仏領西インドの二年間』を熟読したことで、混血文化をポジティブに捉える視点に自信を持つようになったのが当時21歳のコロンビア大学留学生ジルベルト・フレイレであった。彼の主著でハーンに触れているのは第一章の原注153のみであるが、「ハーンは、科学者ではなく一介の作家にすぎないという非難には、一介の作家ながら、社会学の専門家以上に鋭い眼力を持っていたと答えることができよう」(『大邸宅と奴隷小屋』鈴木茂訳 上巻p.386)との短いコメントにフレイレのハーン観をみてとれよう。

最近出版された、歴史教育学者Maria L.G.Pallares-Burkeによるフレイレ研究書『ジルベルト・フレイレ-熱帯のヴィクトリアン』(EditoraUNESP)は、若きフレイレの知的成長を緻密にフォローしており、シェイクスピア、ジェイムス・ジョイスやアラン・ポーなど英米文学ばかりでなく、トルストイやドストエフスキー、モンテーニュやパスカルにも傾倒していた青年フレイレが、恩師フランツ・ボアスからの知的影響はもちろんだが、人類学ではブラジル人学者ロケット・ピント、思想的には19世紀の英国思潮、とりわけハーバート・スペンサーの進化哲学に感化されたことを明らかにしている。彼女はハーンの影響を大きく取り上げ、「ハーンの著書を何回読み返したかわからぬが、フレイレの混血文化への肯定的視点はこのハーンによって育まれた」としている。となれば、ハーンは間接的ながらブラジル社会研究の革命的転換に大いなる貢献をした、といえようか。