会報『ブラジル特報』 2008年5月号掲載
<日伯交流年・ブラジル日本人移住100周年記念寄稿>
二宮 正人(サンパウロ大学 法学部博士教授)

 

2008年は、日本人ブラジル移住100周年の記念すべき年であり、両国において数々の行事が行われている。2世紀目の両国関係を展望するにあたり、両国間の経済・貿易関係の重要性もさることながら、まずブラジル日本移民によって始まり、最近では30万人を超えた在日ブラジル人就労者及びその家族による両国間における人的絆の重要性について考えてみたい。
第2次世界大戦前および戦後に合計約25万の日本人がブラジルへ渡航し、現在ではブラジル人口約1億8千万人の0,7%に匹敵する約150万人の日系人が、1世から6世まで、あらゆる分野で活動している。農業への従事を嚆矢としたものの、現在では農業に従事する者の数は全体の1割に満たないが、この分野における貢献については、ブラジル社会より一致した高い評価が下されている。
また、勤勉、実直といった日系人一般の特性に対する評価と平行して、日系人子女の教育に関する成果は日系社会の誇りとするところである。100年前に初めて日本人移民がブラジルに到着した際、当時のマスコミが注目したのは、他のヨーロッパ諸国からの移民に比較して日本人の識字率が8割を越えていた点であった。それは、封建時代からの寺小屋の伝統から始まって、明治中期において渙発された教育勅語による、初等教育の義務制が徹底されたことに依る。そして、移民が開拓初期の艱難辛苦に堪えつつも、農場や植民地内に学校を建設し、子女教育を熱心に行ったことは、たとえそれが短期的な彼らの意図として、故郷へ錦を飾るための皇民教育の一環であったとしても、その後ブラジル上級学校への進学が結果として生じたことを見るならば、肯定的に評価しなければならない。

無論、移民の子女全員がブラジルの教育システムによる正規の学校教育を受けられたのではない。初期においては、長男や女子は家長を手伝うために農場に残り、次男、三男等のうち、学業優秀な者が、先ず最寄りの都会の中学校、次には、当時サンパウロ州では一定の大都市にしか存在しなかった高等学校を経て、州都サンパウロにあった大学への進学を目指したのである。
貧しかった移民の親が学資を負担することはかなわず、向学心に燃える若き一世、二世の若者は、昼間は働き、夜間高校、大学夜学部において学び、卒業証書を手にすることによって、ブラジル社会におけるエリートの道を開いたのである。これは、一方では日系人学徒本人の努力と、家族をあげての支援、そして初等教育から大学まで無料で学べるブラジルの学校教育制度によるものであったことを忘れてはならない。
中南米有数の最高学府であるサンパウロ大学は、19世紀初頭から徐々に設立された法、工、医、農の国立単科大学を母体として、1934年には教員養成のために新たに設立された文理大学が加わって、州立総合大学となったものである。設立以来今日まで日系人学生が多いことで知られているが、我田引水的に一例を挙げるならば、1936年には法学部から最初の日系人法学士であるシモモト・ケンロウが卒業している。すなわち、笠戸丸が到着してから25年未満で早くも1827年設立のブラジル最古の伝統を誇る国立法科大学への入学を果たした者がいたことは驚嘆に値する。
当時の入試が今日に比べて容易であったなどとはいえず、新参移民の子にとってポルトガル語やラテン語を初めとする人文科学系統の科目は、理科系のそれに比べて習得が困難であったと思われる。にもかかわらず、他国の古参移民や生来のブラジル人を押し退けて入試に打ち勝った事実は、将来は弁護士になることを約束された登竜門に到達した慶事であり、当時の日系社会で大きな話題となったことであろうことは想像に難くない。
以後75年を経た今日、サンパウロ大学法学部は他の理科系、人文科学系の学部に比べて、日系人が多いとはいえないが、これまでに約1500名の卒業生を世に送り出し、法曹界においては、ブラジル連邦司法高等裁判所判事、連邦労働高等裁判所判事を頂点とした裁判官、サンパウロ州検事正等を筆頭とした検察官ならびに多数の弁護士を輩出している。また、キャリア外交官としての初の日系人大使も同学卒業生である。
現在サンパウロ州には国公立総合大学が5学あるが、サンパウロ大学の規模は群を抜いて大きい。州の商品流通税収入の1割が州憲法の規定によってサンパウロ大学の予算にあてられており、学生総数は学部学生約5万人、大学院生約3万人の計8万人である。そのうち約15%が日系人であるといわれており、その比率は州内の他の国公立大学および私立大学、ならびにサンパウロ州とともに有数の日系人集団地であるパラナ州の大学にも適用されうることから、日系人の大学進学率が如何に高いものであるかが理解できよう。また、サンパウロ大学における約5200名の教官中、8%が日系人であり、理工系が中心ではあるが、圧倒的大多数が博士号以上の学位を有していることは、注目すべきことであろう。彼らの多くは日本留学経験者であり、ブラジル社会における日本および日本文化の良き理解者であることはいうを待たない。
翻って、在日20年を迎えたブラジル人就労者の子女教育について考えてみたい。学齢期の児童を含む家族連れ就労者が数多く来日したのは1990年6月の出入国管理法が改正されてからであった。ブラジル人児童が小学校低学年に入学した場合の適応については、あまり問題がないものとされていたが、10歳前後に達していた場合、日本の学校制度として小学校3年生または4年生に編入され、日本語がまったく理解できないことから、授業に関心を失い、不登校となるケースが勃発している。あるいは、日系人として日本人と同様の風貌をしているにもかかわらず、日本語ができず、または日本の風俗習慣になじまず、もしくは混血であることによって、仲間はずれや、イジメの対象にされて不登校となる問題が多発した。
日本国憲法によれば、義務教育は国民の権利とされるが、外国人にまで敷衍されるか否かは、解釈が異なる。一般的には、外国人子女が学校へ行くことを希望すれば、それは認められるが、登校を義務付けるほどのものではなく、外国人子女が不登校になっても、その親に対して教育の義務を怠ったという責任を追及することまではできない、とされている。
彼らの一部は、全国に約85校存在するといわれる、所謂ブラジル人学校に通学している。それらのうち約50校はブラジル教育省が公式認定しており、そのうち33校が日本の文部科学省からも認定されている。これらブラジル学校に通っている子女の数は約9000名とされているが、月謝が高額であることから、その数が伸び悩んでいることが大きな問題である。

学齢期にある在日ブラジル人子女の総数は約3万名であるとされているが、少なくとも数千名が不登校、不就学になっていて、その中から非行に走る者も多いといわれている。実際にも、神奈川県横須賀市にある久里浜少年院に在籍するブラジル人少年は、同院における外国人全体の80%ないし90%を占めている。そのほか、保護観察の対象となっている非行少年の数も多く、全国的統計においても第1位となっていることは、憂慮に堪えない。この問題は、日本ブラジル両国の識者の間でも広く論じられており、出来るだけ多くの学齢期の子女を日本の学校であると、ブラジル学校であるとを問わず、学校の保護の下に置くことが肝要であるとされている。日本の学校当局も外国人集住都市における学齢期児童の増加に鑑み、国際学級の設置、加配教員の配置によって日本語等補習授業を受けている。また、ブラジル人学校経営者も授業料を下げるための努力をしているとのことであるが、学割や公共施設の使用許可を得るための各種学校の認定を受けることは困難であり、多くの学校が単なる有限会社として登録してされている。今後より多くの各種学校の認定が行われることを望みたい。

去る3月25日に外務省、国際移住機関、静岡県の主催で在日ブラジル人に関するシンポジウムが静岡で行われたが、16歳未満の少年が、法律に反して働いているという報告があったことは衝撃的であった。ブラジルにいたならば、働きながら夜学に通ってでも勉強し、将来に備えていたであろう人々が、早くから働き、将来に何の展望もない生活をしていることは、在日ブラジル人社会のみならず、日伯両国にとっても大きな損失ではないか、と考えさせられた。
他方、9歳で来日し、小、中、高校と順調に勉強し、日本人学生と同じ試験を受けて国際基督教大学で学ぶ、混血の3世の流暢な日本語での報告には感動させられた。このようなケースはすでにいくつか報告されており、今後ますます増えてくれればと願わずにいられない。また、ブラジル政府が日本で行っている高校検定試験に合格し、帰国してから一年の予備校を経てサンパウロ大学法学部の入学し、将来ブラジルの外交官を目指して勉強している、同じく混血3世のケースもある。なお、ブラジルでの学業を中断して、日本就労で学資を稼ぎ、帰国して学業を修了するケースも多く見られる。さらに、日本で稼いだ学資で第3国の大学院に留学するケースもあり、最近学術交流の打ち合わせのため訪問したポルトガルで、ヨーロッパ最古の大学のひとつであるコインブラ大学法学部大学院博士課程で学ぶ日系人3世に出会ったことは、日系社会の将来を考える上で、まことに心強い限りであった。