会報『ブラジル特報』 2007年
11月号掲載

             水野 一(上智大学名誉教授、(社)日本ブラジル中央協会理事)


2008年はブラジル日本移民100周年にあたり、「日伯交流年」として日本ブラジル両国において多くの記念行事が計画されている。日系カトリック信者への宣教活動を目的として1967年、ブラジル司教協議会(CNBB)の下に創設された日伯司牧協会(Pastoral
Nipo-brasileira
?PANIB)も、種々の記念行事を企画している。

 PANIBの「百年祭記念特別委員会」がこのほどまとめた企画書によると、その意図は「ブラジルの日本人移民史の中でも特筆すべき、カトリック教会の移住者とその子孫に『信仰の種』を蒔くべく諸外国から派遣された宣教師たちの、献身的な『福音宣教活動』の足跡を記録として残すことにある」としている。なかでも現在、バチカンにおいて列福調査(聖人に次ぐ福者に列するための調査)が進行中の中村長八神父の業績があらためて注目を集めている。
彼は日本人最初の海外派遣宣教師として、1923年に58歳で渡伯し、1940年にサンパウロ州北西部のアルヴァレス・マシャード市で死去するまで17年間、文字どおり東奔西走の福音宣教活動を行い、「日本移民の心の父」として慕われ、生前つとに「聖者」のうわさが立っていたほどの神父である。
 そこで、2005年にブラジルで刊行された中村長八神父の伝記の日本語訳が近く出版されるのを機会に、同神父の渡伯の経緯と宣教活動の足跡をたどってみたい。

奄美大島からサンパウロ州ボツカツへ

 中村長八神父は、1865年6月2日、九州の五島列島の中で最も大きい福江島の奥浦村で、キリシタンの末裔として生まれた。長八少年がまだ3歳だった1868年、海難事故で彼の父を失い、さらに15歳になった1880年、彼の母と唯一人の姉が亡くなるという悲劇を味わった。長八少年は1873年に福江島に入ったフランス人神父が管理する教会に通い、その薫陶を受けた。そして彼は2人のフランス人神父の推薦により1880年、長崎の神学校に入学した。
    


彼は古典、哲学および神学の勉強に励み、優秀な成績を収めるとともに、好んでラテン語とフランス語を学習した。17年後の1897年2月、彼は長崎司教ドン・クーザンによって司祭に叙階されたが、その2週間後に奄美大島の教会で働くよう命令を受けた。中村神父は同島で26年間、ずっと働き続け、島民から尊敬を受け、賞賛の的となった。彼はカトリック信者でない人からも親しみを持たれ、尊敬されたという。この間、1908年6月18日には、笠戸丸に乗船した165家族、総勢786名のサントス港到着とともに、ブラジルへの日本移民の流れが始まっていた。
以来、移民の動きは目まぐるしく急増した。公式統計によると、次の20年間にブラジルに入国した日本移民は5万8,000人余に上った。そしてこれらの第一世代の移民の中には、そのほとんどが長崎教区に属していたカトリック信者約170家族が含まれていた。当時、長崎教区は九州全体および奄美大島と沖縄の島々をも包含していた。
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 これらの移民の大部分は、サンパウロ州のボツカツ教区に集中していた。同教区はサンパウロ州の内陸の広大な土地をカバーし、実にパラナ川の川岸に至る森林地帯の端まで広がっていた。この広大な地域がいかに広いかを示すのには、それがサンパウロ州のほぼ半分に当る約24万8,000平方キロを有し、それは日本の本州よりも大きいというだけで十分だろう。

 こうした中で、ボツカツ教区内のいくつかの教会の主任司祭たちは、日曜日のミサに欠かさず参加しているかなりの数の日本人信者がいることに気付いた。彼らは日本人が遠い道のりを、場合によっては数十キロも歩いて教会まで来ていることを知ったのである。残念ながら彼らと会話できなかったが、何故ならほとんどポルトガル語が解からなかったからだ。司祭たちは、これらの新進の予期しない信者たちの努力と献身さに感動し、初代ボツカツ教区司教ドン・ルシオ・アントウーネス・デ・ソーザに日本移民の中にカトリック信者が存在することを報告した。ルシオ司教は、人々への福音宣教の使命を活発化しようとする司教たちの中の1人だったので、この件を検討した結果、日本から1人もしくは2人の司祭の來伯について努力すべきとの結論に達した。

 かくして、1920年、ブラジルに着任した新しい教皇庁大使エンリコ・ガスパリ司教は、カトリック教会を代表し、全費用を日本政府負担として2人の司祭の來伯のために日本大使館と折衝を始めた。この要請は正式に外務省を通じて日本の文部省に伝達され、文部省はこうした要請を東京の大司教に伝えた。ところが、当時の大司教ドン・レイは、教区内の司祭数の絶対的な不足から、残念ながらこの要請に応えられないと回答した。

 こうした中で、1922年、ローマ教皇庁の信仰公布省と関係が深いジャルデイーニ司教が教皇使節として日本を公式訪問した。彼もブラジルの日本人宣教のため少なくとも1人の司祭の派遣に努力してきたが、今回は長崎の司教に頼んでみようと思った。長崎教区はもっと大勢の司祭を有し、1875年以来、1つの神学校も持っていたからだ。そこで長崎司教のドン・コンパスは教区の司祭たちに、ジャルデイーニ司教の要望書を伝えたが、同司教には1つも返事がなかった。

 奄美大島の小村の浦上と奥浦の教区司祭だった中村長八神父は、そのつつましさと多分老齢の理由から、すぐには名乗りたくなかったが、誰も志願しなかったので、コンパス司教に手紙を書いた。「もう年老いておりますので、さほどお役に立つとは思いませんが、もし私でよければ、私がブラジルへ参りましょう」。

中村神父の宣教活動
 かくして、中村長八神父は奄美大島の島民に永久の別れを告げ、1923年1月、長崎に向い、6月11日、「郵船河内丸」に乗船、ブラジルに向い、2ヶ月余にわたる船旅のあと、8月23日サントス港に到着した。直ちにリオデジャネイロに向い、教皇庁大使ドン・エンリコ・ガスパリを訪問した。その際、同大使は中村神父に対して、日本移民に対する布教はローマ教皇庁の意向であることを証明する教会当局者宛の推薦状を手渡した。このあと中村神父は日本大使館を訪問、田付七太大使の歓迎を受けた。そして中村神父はついに1923年8月30日、ボツカツにある司教区の本部に到着した。

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 中村長八神父の主な活動地域

 中村神父の任務は広大な地域に散在する日本人カトリックの家庭を巡回訪問し、ミサなどの秘跡を授けることだったが、その活動範囲はサンパウロ州全域から隣接諸州まで拡大していった。当時の交通手段はきわめて乏しく、鉄道は主要都市間のみで、道路はほとんどなく、車は都市だけに見られた。このため、日本人コロニア(入植地)を巡回する中村神父は徒歩ないしは馬で移動し、普通は背中に重いトランクを背負つて歩き、戸外や森の中で野宿することもしばしばだった。

 中村神父が貧しい身なり(黒の司祭服)で、雨の日も晴れの日も、毎日徒歩や馬で日本人移住地を訪れる姿を見て、人々はいつしか彼を「生ける聖人」と呼び始めたのである。こうした貧しい人々に対する献身によって、中村神父は1938年、ローマ教皇ピオ11世により「グレゴリオ大褒章」を授与され、さらにモンセニョールの称号を受けた。しかし長年にわたる徒歩や馬による間断のない旅行はついに中村神父の精力を消耗させることになり、1940年2月、彼は病床につき、3月14日、75歳で死去した。
(中村神父の伝記『ドミンゴス中村長八神父
―ブラジル日本移民の使徒』 (ペドロ大西著、水野 一訳)は本年12月に長崎の聖母の騎士社から出版予定)