会報『ブラジル特報』 2008年
1月号掲載

               三浦 左千夫(慶応義塾大学 医学部 熱帯医学・寄生虫学教室)


渡伯


1968年、大学の卒業を控えたある日、学部長に呼び出された。「アメリカに行きたいか、一体何をするのだね? ブラジルに国立大学付属熱帯病研究所を作る計画がOTCA(海外技術協力事業団)を通じてあるが、若い兵隊として参加する気はないか?」と。
少年ターザン、シュバイツアー物語、ファーブルの昆虫記、北里柴三郎などに感化されていた僕は、何か夢が弾けたかの様に感じた。もちろんYes、すぐに返した言葉は、「僕は何をするのですか?」「何も出来ないだろうから、せいぜい車の運転免許だけは取っておきなさい、出発前に!」で、公用語は?なんとポルトガル語!
当時は外国語大学と上智大学に正規のコースがあったが、付け焼刃にも時間がない。

このようにして ODA
がらみのブラジルに対する最初の医療技術協力分野の尖兵として派遣されたのが、小生のブラジルとの出会いであった。もちろん日本の供与機材の取り扱い技術を現地研究者や技術者に伝授するのが主目的であった。

当時のブラジル行きはなんと国際空港羽田を出て42時間を費やし、リオデジャネイロに到着。日本大使館員の出迎えがあり、白い背高の塀で囲まれた瀟洒な館、椰子の木がさも南国の趣をかもし出した日本大使館へとポンチアックのデッカイ
アメリカ車で乗り入れた。アマゾンジャングルの先住民が裸で槍を構える生活が身近にあるものと思いきや!否、ポルトガル、オランダの白人社会が築き上げた経済社会基盤、かつ想像もしなかった厳格なカトリック社会があった。また人種の坩堝たる証は、白人社会がブラジル開拓当時にアフリカからともなって来た黒人と織り成す微妙な社会構成だ。まったく飽きることのない魅力的な世界であった。目立つ人種差別の問題はなく、有色人種である日本人を見る目にはまったく違和感はないようだ。また美人(美人の定義は千人万別だが)は有色DNAを持ったヒトの方に多く、さらには腰を振るリズム感も白人に比べてはるかにバイブレートする。世界的に有名なリオのカーニバルでも観客を魅了するのは、全員有色人種ムラータだ。一方、ある種の身分差別があった。正に豪華客船の船室別階級差に等しい身分差別があった。我々は準外交官扱いゆえに背広、ネクタイ着用ならば、ほぼどこのクラブ、高級レストランへでも出入りが優遇されたことを覚えている。

一番驚いたのは、海岸の使用時間帯だった。昼すぎの太陽を浴びようと海岸に出たら、黒い肌の人たちが断然多く、派遣先の研究所でその話をすると、午後の陽射しが一番強いときには主人は昼寝をし、その合間に使用人が水浴をするのが慣例で、生活習慣には植民地時代の名残があり、陽射しのやわらかい海岸に午前中に出るのは社会的ステータスのある人たちと説明された。本来なら仕事時間中だろうに!
ブラジル社会にはこのように、人種差別はなくとも、身分差別はかなりのものだった。

 仕事現場の国立ペルナンブコ大学医学部付属熱帯医学研究所では、前述のごとく現地研究者や、技術者への技術移転が我々の仕事であった。一寸したトラブルだと自分で直した方が早いと勝手にヒューズボックスなどを開けたり、ヒューズ交換したりしていると、「貴方たちはそんなことをしに日本から来たのか?
電気技師の仕事を取ってはいけない!」といわれて驚いた。彼らの慣習に従い、電気技師を頼むと、「彼はいま昼寝の時間だ。電気技師は来ない。また明日に期待しよう」などと、ヒューズ交換だけで半日~2日は待たされることは日常茶飯事。アテアマニャンに振り回される日々だった。一方、午前2時~3時まで、騒いでいても翌朝は兎に角7:30~8:00には職場に居る。何だろう?こいつらのエネルギー源は。サトウキビの酒ピンガ? 豚肉が入った豆料理(フェジョアーダ)?
それと熱烈なフレーヴォのリズムか?
フレーヴォといえばオリンダの街、丘の上の教会広場はフランボーヤの木陰で若き日の恋の語らい場所であった。最近はほとんど観光客で一杯だ、恋を語らう静かな場所も既に無いが。

右も左も判らずに渡伯して、朝、昼、晩の挨拶を覚え、右、左、真直ぐ、止まれ!をポルトガル語で覚え、東北ブラジルでは有名なボアビアージェン海岸に面した場所に住んでいた。小麦色の肌が美しい混血娘、黒い瞳で小麦色が一番リズミカルに情熱のブラジルのリズムを刻む。兎に角ブラジルは白人から黒人まで実にカラフル、混血の楽しさがある。今でこそブラジル人との国際結婚が増えてきたが、子供が出来るとどんな肌色が出るかは「?」である。任期を終了し帰国したのが、世界万国博覧会の年。以来数多くのブラジル人との付き合いが、思えば40年になろうとしている。

ブラジルの寄生虫疾患と私

当時の日本では、いまどき寄生虫検査?という時代であった。レシーフェの研究室までの回廊で患者に行き逢うごとに覚えたばかりのBom Dia(おはよう!)と声をかけていたが、気付くとなんで皆妊婦のごとくお腹が大きいの?
女性なら臨月で済まされても、男性までもが布袋様のように大きな腹を抱えている。程なくしてマンソン住血吸虫症の末期患者達であったことが、外科の手術室に呼び出されて解った。この難病に侵された日系人はいないかと、日系移住地を検診した。基本は糞便検査である。余りの暑さに、いくつかの糞便容器はガス爆発。糞塊が飛び散る!
大西洋岸に沿って点在した日系移住地からは感染者も見つかった。細江静男先生の『ブラジルの農村病・コロニアの保健衛生は奥地巡回から』とあるように、日本移民のありのままを垣間見ることが出来た。今日のJICA職員には想像することが出来ない環境があった。しかし、今日の余りにも発展を遂げたブラジル社会を見ると、移住事業のカットはあっても全ての移住地が社会の変貌とともに発展したわけではなく、そのケアーは継続すべきものがあるのではないだろうか。

また、シャーガス病は未だに根治薬もないままに、ラテンアメリカ就労者とともに日本に持ち込まれている。ブラジルを中心に流行地をもつシャーガス病については、Coracao de
boi(牛の心臓)といわれている。心臓が大きくなる病気程度にしか認識がないままにブラジルに赴任したが、これが今日ライフワークに繋がるとは思ってもみなかった。研究所の仲間でも、突然姿が見えなくなり、尋ねると「彼は昨日、郵便局前の広場で心臓が破裂して逝っちゃった」注1と聞かされ、シャーガス病の恐ろしさを認識した。本疾患は幼少時に感染して急性期に死を迎える人はそう多くはない、ほとんどが緩解し一見正常な生活を営める。

 
 セアラ州バリャーノ市でシャーガス病患者に生活指導をするDr.三浦(左端)


 「シャーガス病なんか大したことではないので気にしない!」というのが一般的な認識であった。健常そうな慢性感染女性が妊娠すると、時として先天性シャーガス病児を出産する事がある。今日ではそのシャーガス病が日本国内でも散見されることをご存知だろうか。ラテンアメリカからの就労者に助けられているIT産業界、自動車産業界が我が国のあちらこちらにある。その多くは30~60代の働き盛りの人たち。ブラジル移民の日系人でシャーガス病に罹って日本で亡くなった症例報告は既に1979年にあった。その時にもっと真剣に取り組むべきだったと反省しているが、「誰かやるだろう」と。

が、結局マイナーな南米の貧困層の病気といわれたシャーガス病に関心を抱く研究者、臨床家はいなかった。しかし今やシャーガス病は国際問題化しつつある。40~60年前にブラジルで生まれ育ったかなりの人達が、シャーガス病の感染リスクが高い環境に生活をしたと考えるべきだろう注2。日本の企業戦士もまた然り。中央ブラジル、内陸部セルトン地域で頑張った経験のある企業戦士は検査をお勧めしたい。

 
ところで、成人病検査で心臓の不具合を指摘されたらシャーガス病?
そんな南米でもシャーガス病にまったく侵されることなく生きる民が多くいる。彼らが用いる伝承薬の不思議に大変興味があり、南米産生薬、秘薬に新たな興味を抱く昨今である。

注1:突然死の約半数は、シャーガス病によるといわれている。
2:日本で心臓の不具合を訴え、最近の10年間で医療機関を受診したブラジル人、ボリビア人30名中13名がシャーガス病の感染者であった