会報『ブラジル特報』 2009年3月号掲載

                            岸和田 仁(在サンパウロ)


 映画好きの仕立て職人の息子として1928年サンパウロで生まれたネルソン・ペレイラ・ドス・サントスは、名門サンパウロ法科大学を卒業したものの法曹界には入らず、映画の道を歩み始める。まずは実作よりも批評で、“社会主義リアリズム”の視点から当時の映画全般を批判していたが、イタリアのネオリアリスモ旋風をストレートにうけとめ、「映像技術よりも内実に価値をおく、戦闘的な民族映画」「ただし、ハリウッド映画の技術レベルを下まわらない映画」を制作すべきだ、と主張していた。


 この自説を具体化したのが、『リオ40度』(1955年)であった。リオのファヴェーラに住む5人の少年たちの日常を通じてブラジル社会の実相を炙り出したリアリズム手法は、シネマ・ノーヴォと呼ばれるブラジル映画革新運動の先駆けとなった。ネルソン・ペレイラ青年が、ノルデスチ(東北伯)の旱魃難民家族が辿る苦悩の日々を語った小説『乾いた人生』(原作1938年)を映像化するのは1963年である。作家グラシリアーノ・ラモスの代表作を映画化するに当たって、ラモスの実家があるアラゴアス州パルメイラ・ドス・インディオス市郊外をロケ地として選んだが、ショルダーカメラのみによる“下からの目線”で捉えたセルトン(奥地)における“ひからびた人生”が無数あることを示した、今や古典的な名作となっている。

 この『乾いた人生』とローシャの『黒い神と白い悪魔(太陽の土地の神と悪魔)』(1963年)が1964年の第17回カンヌ映画祭に出品され、フランス映画界の高い評価を受ける。定説に従えばこの二作をもって「シネマ・ノーヴォ」の嚆矢と為す。
 
 
その後『私が食べたフランス人』(1972年)、『奇蹟の家』(1979年)、『監獄の記憶』(1984年)などの話題作を発表してきた同監督は、昨年11月25日、80歳の誕生日を迎えた。 

 
 老いて尚ますます元気な監督は、近年、ブラジルの歴史や社会に関するドキュメンタリー作品に傾注してきている。ブラジル社会史論を革新したジルベルト・フレイレの主著をTV向けドキュメンタリーにまとめた『大邸宅と奴隷小屋』(2000年)は日本でも公開されたが、その後、ブラジル史解釈に画期的な足跡を残した歴史家セルジオ・ブアルケの業績と一生を親戚(息子のシコ・ブアルキ、孫のベベウ・ジルベルトら)の証言などをもとに再構成した『ブラジルのルーツ』(2002年)も話題を呼んだが、一昨年は本国ポルトガルからアフリカ(アンゴラ、モザンビーク、カボ・ヴェルデ、ギニア・ビサウ)、インド(ゴア)、中国(マカオ)まで拡がった言語をとりあげた『ポルトガル語』という作品を仕上げている。

 昨年11月の「第41回ブラジリア映画祭」において、このブラジル映画界の巨匠はカンダンゴ・トロフィーの受杯という特別な賞賛を受けたが、同時に行なわれた記念セミナーでは、『乾いた人生』で主人公の妻ヴィトリアを演じた女優マリア・ヒベイロも参席して、感動的な再会を喜んだのであった。

 現在完成したのが、評伝ドキュメンタリー『アントニオ・カルロス・ジョビン』である。これはエレナ・ジョビンの評伝『アントニオ・カルロス・ジョビン-ボサノヴァを創った男』(国安真奈訳、青土社)をベースに、トム・ジョビンの生涯を飾った三人の女性を巡るドキュメンタリーであるが、これまた話題となるはずだ。この次の作品も決まっていて、皇帝ペドロ二世の評伝を書いた歴史家ジョゼ・ムリロ・デ・カルヴァリョについてのドキュメンタリーで、歴史家の歩み、考え方を示すばかりでなく、ペドロ二世のヒストリーも織り込んだフィクション的ドキュメンタリーを目指す由だ。

 ブラジル文学アカデミーの会員にも選出されたネルソン・ペレイラ監督は、ブラジルの歴史や文学への関心を一層深め、「ブラジル的なもの」を追求する求道者となったといえようか。とまれ、80歳になっても、知的好奇心も映画製作意欲もいささかも衰えていないことが確認できたわけで、多くのファン、関係者は監督の更なる活躍を念じている。