会報『ブラジル特報』 2009年3月号掲載

            ウラノ・エジソン・ヨシアキ(上智大学 外国語学部ポルトガル語学科講師


なぜ目立つ在日ブラジル人の解雇、失業

 昨年後半に深刻化した米国発の世界金融危機。日本経済への影響が感じられはじめて以来、連日派遣労働者、外国人労働者の解雇のニュースが雇用不安の増大を露呈している。正社員もリストラのターゲットとなっており、国籍や特定の雇用形態を超えた過程が進行していることが明らかである。しかし、その中でも一際目立つのがラテンアメリカ人、とりわけ在日ブラジル人(2007年末のブラジル人外国人登録者数は316,967人)の解雇、「派遣切り」の問題である。本稿では、在日ブラジル人の失業がライトアップされている理由、この事態を招いた諸要因について、移住過程と労働市場でのあり方を通じて考えていきたい。

 製造業の請負・派遣労働者として生きる

 今回の解雇の波は、業種を問わない形で広がっている半面、製造業の非正規労働者に一番大きな打撃を加えている。平成17年の『国勢調査 ―外国人に関する特別集計結果の概要』によると、日本におけるブラジル人就業者数(140,830人)のうち、63.8%が製造業に従事している。また、夫婦を想定した家計を考えても、ともに製造業に従事していることが多い。同調査の日本人就業者の製造業の割合は、就業者総数(60,733,598人)の17.1%である。ブラジル人就業者数の大半が製造業、しかも派遣や請負といった不安定雇用に従事していることを考えると、ブラジル人コミュニティにおける今回の危機の影響の深刻さが創造できるであろう。マスコミの報道では特にブラジル人学校の学生の減少が取り上げられることが多いが、コミュニティの消費を支えている製造業に従事している人々が職を失うことは、これまで構築されてきたコミュニティのあらゆる層にひずみが発生することを意味している。小売業、メディア、ブラジル人学校、派遣業者自体の事業継続などもこれから厳しさを増すであろう。

 2004年に施行された労働者派遣法改正による製造業への派遣を禁止する動きがでてきている。経済界、労働組合、政界で賛否両論があるが、次のような軸がそれらの議論を支えていると考えられる。禁止に反対する側は、景気変動にあわせて人員の増減を臨機応変にできる雇用形態として、製造業での派遣は必要であり、維持されるべきだとしている。禁止する必要性を訴える側は、労働者がものとして扱われる可能性が極めて高く、製造業への派遣は禁止されるべきだと主張するのである。現在、ブラジル人コミュニティが対面している危機は、彼・彼女たちの以上で述べた雇用への従属が強いため、フレキシブルな雇用が個人、家族、企業のスタンスを超えて、ある社会への影響を凝縮したかたちであらわしているように思える。ブラジル人コミュニティが対面している諸問題は、こうした労働市場のありかたと、それが社会にもたらす影響を象徴しているといっても過言ではない。この事態は日本社会の今後のありかたにも疑問を投げかけているともいえる。

 「グローバルな競争に打ち勝つために...」

 グローバルな競争に打ち勝つためには、企業は低賃金で不安定な雇用に頼らざるを得ないとの見方が経済界では強い。ヒト・モノ・カネの世界規模での流動性がもたらす経済のダイナミズムは、特に1990年6月の入管法改正以降、ブラジル人たちを含む多くの外国人の日本への移動を促した。今では、さらに安い労働力を求めて企業は海外へ生産拠点を移転するか、「研修生」の名目でより安価な労働力の導入も進めている。それも、例えば中国などの安価な労働力を使った製品に打ち勝つためにはやむを得ないとされることがしばしばである。しかし、人間の生活を守る最低ラインの収入をもたらさない仕事は、効率的なものづくりにはつながるものの、平和な社会をつくることにはどこまで貢献するのだろうか。なし崩し的に派遣労働を含む非正規雇用が日本の就業者数の大半を占めるような流れが続いたとしたら、諸問題もなし崩し的に社会から認識されていただろう。その意味では、今回の危機は大きなメッセージを発信しているし、変化へ向けてのチャンスを与えているように思える。

 製造業への派遣は、例えば、専門性をもつ労働者の派遣とは異なり、「もの」として扱われる可能性、性質が高く、労働者が「もの」と化していく過程に歯止めがかからなくなる。労働者の派遣は、資材の調達のようになってしまい、商品の需要の増減にともない労働の投入量の微調整を可能にしている。生産過程のむだをなくすことで生産者は効率を上げ、利益をだす。生産をリーンにすることで競争力は高まり、世界の競争に打ち勝つことができる。しかし、人間の生活には「むだ」と仕事の「継続性」がなければ、生活は成り立たない。休むという「むだ」、病気をしたときの「むだ」、余暇という「むだ」、いずれも生きていく上では欠かせないものである。人間の生産する時間だけを買って、その他の時間を保障しない雇用は、生活維持と向上のための条件を満たさない雇用を意味している。戦後、日本は見事に経済復興を実現、高度成長、1980年代の Japan as Number One”の時代を迎えた。自らの実力を過信した矢先にバブルがはじけ、「失われた90年代」を経験した。雇用慣行に関しては、失われたのは、生活保障における理念ではないかと考えられる。生産システムの洗練と水準の向上とは反比例に生活を保障しうる雇用における理念は衰退しつつある。そのつけは、ブラジル人たちを含む多くの労働者の生活苦により表出されているが、要因は突発的なものではなく、これまでの、そしてこれからも続く労働・雇用のあり方にある。

 ブラジルは、世界でも有数の格差社会として知られている。私が十年ほど前、日本の大学で社会階層についての勉強をした際、母国の状況を念頭に考えると、違和感さえも覚えた。今日の時勢では、社会階層、格差社会はこの国の世論のホット・イッシュとなっており、特に若者にとっても実感のある、わかりやすいお話になってきている。80年代、90年代のブラジルの経済危機を経験したブラジル人たちは、格差社会には利点がないこと身をもって熟知している。貧富の差が激しい社会とは、人々の尊厳を損なわせ、自尊心と自己実現の道を奪っていく社会である。近年、ブラジルでは格差是正に向けて行われてきた様々な取り組みが功を奏し、国は徐々にその姿をかえつつある。在日ブラジル人たちは母国の「失われた80年代」から脱出したが、日本の「失われた90年代」を経験し、まさか日本でこのような「格差社会」の進展を経験するとは創造もしなかっただろう。

 長期展望を見据えた対応

 3Kと呼ばれる仕事に従事し、非正規労働者として働くことで、在日ブラジル人たちは一つのライフサイクルを無事に生き抜くことができるとどこかで思っていたかもしれない。今回の危機は、こうした考えを見直すための苦いきっかけになってきている。それは移住者自身とブラジル人コミュイティに突きつけられた課題であるが、政府機関、企業にも突きつけられた課題でもあると考えたい。本格的な移民政策が不在のまま構造化された移住過程は、生産主義的な論理に従って人々が動く、動かされるような構図を作り出してきた。これからも失業者の増加が続くであろう。しかし、いずれ景気は回復し、人手が必要となってくる時期が訪れる。ブラジル人を含む外国人を単なる労働力としてではなく、一市民として迎えることを、社会コストの増大として見なすのではなく、言語教育、職業訓練、雇用と生活保障を含む社会全体への投資として位置づける必要性をこれからの課題として最後に示唆しておきたい。