会報『ブラジル特報』 2009年5月号掲載

                          岸和田 仁(在サンパウロ)



  博物学者チャールズ・ダーウィン生誕200周年、彼が近代的進化論を論じた著書『種の起源』発刊から150周年ということで、英国では記念行事が各地で行われたが、ブラジルでも2月から3月にかけて新聞や雑誌、TVでダーウィン特集が組まれたのであった。

 周知の如く、22歳の青年科学者ダーウィンが英国海軍の測量船ビーグル号に乗船して1831年から5年間かけ、南米各国の沿岸から南洋諸島まで植物学・動物学・地質学など総合的な調査を行ったが、この時の見聞と知見から得た様々な疑問符への解答として進化論が構想されていく。彼の革命的な理論の契機となったのは、ガラパゴス諸島の動物相の観察であり、さらにはアンデス高地で見た化石森であったが、生物多様性に開眼したのは最初の大陸寄港地であったバイーアやリオにおいてであったから、ブラジル人にとっては「ダーウィンという天才科学者が知的開花するに当たって、ブラジルが発火剤の役割を果たした」という一種複雑な思いというか誇りがある、といえるだろう。

 総合週刊誌ヴェージャ2月11日号の進化論特集や月刊科学啓蒙誌GEO 3月号のダーウィン南米調査地再訪特集記事も大変面白かったが、新聞では例えばエスタド・デ・サンパウロ紙3月1日付け記事「ダーウィンがブラジルで見たこと」が一頁全面を費やして彼のブラジル体験を詳細に報じていたので、この機会に『ビーグル号航海記』(岩波文庫、三分冊)をざっと再読してみよう。

 「この日は楽しく過ごした。しかし生まれてはじめて、ひとりでブラジルの森林を逍遥した博物学者の感じをあらわすのに、楽しくという言葉は弱すぎる。草のしなやかなこと、寄生植物の珍奇なこと、あらゆる花の美しさ、葉のつややかな緑、またとりわけて、植物が一般に豊饒なことは驚嘆で一杯になってしまった。極めて逆説的なほど、音と沈黙との混和が森の陰の暗い辺にみちている。」と記したのは、サルヴァドールに上陸した1832年2月29日だが、23歳になったばかりの青年の感動が伝わってくる。

 バイーアの海岸で、はりせんぼんを面白がって眺め、リオでは陸棲プラナリアや鳴き声の面白いカエル、こめつきむし、蝶などの昆虫類、様々なクモ類を、というようにイギリスに比べはるかに種類も数も豊かなブラジルの生物多様性を仔細に観察してはノートに記録していく。若き博物学者の八面六臂の活躍が、この航海記から読み取れる。

 一方、黒人奴隷制反対論者らしい観察もある。コルコヴァードという地名もキロンボ(逃亡奴隷集団地)という単語も書かれていないが、「壮大な、裸出した嶮しい花崗岩の丘の下を通った。ここは永らく脱走奴隷の棲家となって有名であった。彼らはこの丘の頂に近いわずかの地面を耕して生活を保とうとしていたが、遂に発見され、一隊の兵士が派遣されて、すべて捕らえられた。」「取り残された、一人の老婆だけは、奴隷生活に戻ることを拒否して、頂上から身投げした」が、これは「自由に対する尊敬すべき愛情」だと、静かな怒りを行間に残している。

 ペルーを後にして南太平洋とインド洋を経ての帰路、最初の滞在から4年後の1836年8月二度目のブラジル寄港で、レシーフェとサルヴァドールに数日滞在しているが、レシーフェ住民の無愛想な対応に不快感を覚えたダーウィンは、「この国は奴隷制度の国であり、従って、道徳の堕落した国である。」と厳しいコメントを付している。さらにブラジルの海岸を去るにあたって「神に謝す、私はもう奴隷制度の国を訪れることはあるまい。」と“捨て台詞”まで書き記している。進化論の構想を始めていた27歳の青年科学者には、どんな理屈を押し付けられても奴隷制は許容できるものではなかったのだ。

 さて、ダーウィンが感動したサルヴァドール近郊の森林は、今やほとんど伐採され、残存している森林面積は元の7%ほどだという。バイーア連邦大学の研究によれば、ダーウィンが滞在した1832年当時のサルヴァドールの平均気温は、“森林効果”のおかげで、現在よりも8℃も低かっただろうと推定されている。もしダーウィンが今日のブラジルを観察したら、どんな反応を示しただろうか、驚きか失望か、と心配なのが21世紀のブラジル人読者といえようか。