会報『ブラジル特報』 2010年1月号掲載
文化評論

                                   岸和田 仁(協会理事)


 2009年10月31日に永眠した人類学者クロード・レヴィ=ストロースが打ち立てた構造人類学は、言語が互いに関連する複数の体系(構造)であると主張した構造言語学の理論を人類学に適用したものであり、要素の相互関係のほうが要素そのものよりも常に重要であることを明らかにした。

 彼によれば、多様な民族学データを統合して構築されたシンボル体系(言語、親族関係、芸術、科学、宗教などなどの総合)の集合が文化であり、「未開」文化の思考様式と「先進」文化の思考の仕方との間にはたいした差違はない、となる。

 インディオ研究の結果、人類にとって「インセストタブー(近親相姦禁忌)が出現する以前には、文化は存在しない」と主張した、この偉大なユダヤ系人類学者がこうした革新的理論を構築できたのは、ひとえにブラジルのおかげといってよい。ここで改めて、この浅からぬ相互関係をちょっとレビューしておきたい。

 1908年、両親の滞在先のベルギーで生まれた彼は、マルクスとルソーを愛読する社会主義学生運動理論家として活躍し、パリ大学に学士論文「史的唯物論の哲学的諸前提」を提出して、高校の先生(哲学)となる。この哲学教師が、米国の人類学者ローウィを読んで、人類学に目覚めた頃、新設されたばかりのサンパウロ大学で社会学の講師として行かないか、との誘いをうける。

 こうして1935年、27歳の“にわか人類学者の史的唯物論者”がブラジルに着任し、社会学や人類学の教授としてサンパウロのエリート学生に講義を与え、さらには先住民インディオの調査研究を行う。4年間のブラジル滞在を終えてフランスへ帰国したのは1939年であった。

 彼が学位論文『親族の基本構造』(1948年) を完成させ、1952年にユネスコから『人種と歴史』を刊行してから二年後の1954年から55 年にかけて、わずか5ヶ月で一気呵成に書上げたのが、壮大な記録文学とも長大な哲学的エッセイともいえる『悲しき熱帯』(川田順造訳、中央公論新社)である。この今や古典となった著書が彼を有名な文人に押し上げたが、ブラジル関係者からみれば「現代のルソー」によるブラジル論考である。

 「文化は最近まで金持の玩具に過ぎなかった。それというのも、この少数の特権者が、教会と軍隊の旧態依然たる影響力や個人の権力に対抗するために、市民的で世俗的な精神に支えられた世論を必要としていたからで、サンパウロ大学を創設することによって彼らは、文化というものを、より広い範囲の顧客に向かって開こうと目論んだのである。」と喝破したように、1930年代後半のサンパウロという躍進的社会での生活を楽しみ、人類学のフィールド研究も行え得た“幸せな時代”を回顧した作品ということも出来よう。

 だが、冷静なブラジル住民の視点からいえば、ブラジルの国や住民という“調査される側”がなかったら、彼の博士論文も書上げることも出来なかったし、レヴィ=ストロースという著名な構造人類学者も生まれなかったはずだ、となる。もっといえば、彼はブラジルのおかげで有名になれたのだ、と。そして、本人はこの「負い目」を十分認識していたからこそ、その“調査する側”の視点を問い続けたのだ。

 それ故に、1996年に発刊した写真集『サンパウロへのサウダージ』(今福龍太訳、みすず書房)に付された序文の終りを、ノスタルジックにこう結んだのだろう。

 「もうブローデルはおらず、当時の私たちの仲間であったモンベーグもモーグエも亡くなった。もし彼らがまだ生きていたら、彼らはみな私のもとにやってきて、すでにブローデルも彼の演説で述べているように、きっとこういうにちがいない。ブラジルこそ私たちの人生のなかの偉大な日々であった、と。」 大著『地中海』の歴史学者ブローデルも地理学者モンベーグもブラジルを媒介して学問を革新したが、レヴィ=ストロースはブラジルという素材に自ら自己同一化し、そこから人類全体の歴史を構想した思想家である。ブラジル知的体験は人によって革命的な思考体系をもたらす、その素晴らしい一例がこの人類学者だ、といってもよいかもしれない。