会報『ブラジル特報』 2010年3月号掲載
<サッカー・ワールドカップ関連寄稿>

                  矢持 善和(天理大学 教授・協会理事)


はじめに



 いよいよ2010年6月、南アフリカでサッカーのワールドカップ第19回大会が開催される。ブラジルは19回の全大会に出場し、過去5度の優勝を誇っているが、ドゥンガ監督率いる今回のセレソンにはカカー、ロービニョ、ルイース・ファビアーノ等のスター軍団が揃い、どの国のマスコミからも今回も優勝候補の筆頭といわれている。ただ、ドゥンガ監督のみぞ知るロナウジーニョ・ガウーショの動向が気にはかかるが、出場如何にかかわらず今回のブラジル代表の結果が楽しみではある。



 一方、2014年のサッカーワールドカップ第20回大会は、すでにブラジルが開催国に決定している。2016年にリオデジャネイロで開催される事が決定しているオリンピックに向けても同時進行でスタジアム等の整備が進められてはいるが、2月12日のグローボ紙によれば、ブラジルのスポーツ省オルランド・シルバ大臣は工事の進行がかなり遅れている点を指摘しているとある。ブラジル開発銀行(BNDES)からすでに総額の75%にあたる26億ドルもの融資がなされているにもかかわらず、各州の競技場の建改築工事がほとんど進んでいないと記載されている。さて、2014年までに工事は終了するのだろうか。ブラジルのジェイチンニョ・ブラジレイロ(ブラジル式解決策)に是非期待したいところである。



ブラジルサッカーの本質



 さて、サッカーへの政治的権力の介入問題などもマスコミで指摘はされるが、筆者にはブラジルのサッカーについて語る際に、避けて通れないと考えられるのが貧困、人種等の問題であるように思える。



 貧困層に生きる一部の人々が生活のために犯罪などに手を染めるケースもあるが、ブラジル人口の圧倒的多数を占める貧困層に生きる青少年の上にとって、貧困脱出法の一つのオプションはサッカーであることはよく知られている。例えば、筆者は2001年にパラナ州ロンドリーナ市で医者や弁護士を営む日系人を中心に設立されたパラナ・サッカー・テクニカル・センター(PSTC)を訪れた事がある。ここは寄宿制であり、ブラジル全土から、18歳以下の子供たちの中から選りすぐりの選手のみをセレクトし、無料で入学を許可し、実績のあるコーチ陣がサッカーを徹底的に教え込み、名のあるクラブに売り込むシステムになっている。そこで目にしたのは、センターの入り口付近に座り込んだおびただしい数の少年たちだった。筆者が「センターではストリートに住む子供たちにも慈善事業をなさっているのですか」と訊ねると、「いいえ。彼らはセレクションにやってきた子供たちです。残念ながらセレクションで落とされて、帰るに帰れなくて、座り込んでいるのですよ」という答えが返ってきた。



 少年たちの多くはプロになる事を夢見て、なけなしのお金を使ってバスに乗り、中にはお金が無くて遠い地方から歩いてきた子供もいるだろう。生きるために、家族を貧困から救うためにセレクションにやって来た。だから、寄宿舎にそのまま残って生活する事しか考えてなかっただろう。途方に暮れる彼らの眼差しに、ブラジルサッカーの原点を見たような気がしたのを今も覚えている。



 つまり、ブラジル人にとってサッカーはある意味で彼らの貧困からの脱出の一つのオプションでもあり、憧れでもあるが、実際には人生の生きがいそのものであると理解した。彼らはサッカーにブラジル人としてのアイデンティティーと誇りを持っており、サッカーから見放されることは神や親を見失うことと同義であり、それほど強い愛情を注いでいるのだと感じた。



サッカーの流入と人種問題



 ブラジルにサッカーを伝えたのは、1894年、英国系ブラジル人のチャールズ・ウイリアム・ミラー氏であるといわれる。そして、サッカーはサンパウロとリオデジャネイロの上流階級を中心にブラジル全土に広まっていった。しかし、この頃のサッカーはまだまだブラジルの上流階級が独占するエリートスポーツだった。ブラジルにおけるサッカーの国内への伝承形態は移民社会が中心であり、各種民族グループによって設立されるクラブ組織が重要な役割を果たしてゆく。


 そういったサッカーの歴史的背景の中に、1930年に勃発するヴァルガス革命の影響が加わって、人種的偏見が政治的に正当化される時代に突入する。そして人種的理論は、ヨーロッパの白人の他人種に対する差別や支配を正当化するための科学的理論として主にエリートたちに受け入れられ、後には、明らかに異人種である日本人に対するイエロー・ペリル(黄禍論)の問題などが支配層により議論され、正当化される発端となった。

 このことについて、マリオ・ロドリゲス・フィリョが1940年代に発表した数冊の書籍が現在でも多くの研究者のリファレンスとなっている。フィリョは、カンポ(競技場及びグラウンド)とペラーダ(道や空き地で行う草サッカー)がエリートと一般大衆の境界線を作り、カンポでは英国式のサッカーが行われ、ペラーダでは靴下や古着を丸めて作られたボールによってサッカーらしきボール蹴りが行われたという。黒人や貧困層がサッカーを覚えはじめた頃には、すでに白人にはサッカーコーチがおり、クラブ組織が存在していた。しかしながら、この裸足でのボール蹴り、つまりペラーダの中に黒人の本能と天性が宿り、ヒーロー誕生には不可欠な要素であるファンタジックなブラジル式サッカーの原点が生まれたとフィリョは分析する。またフィリョによれば、1923年にヴァスコ・ダ・ガマ・レガッタ・クラブが、サン・クリストヴォン・クラブが1926年に、またバングー・クラブが1930年に、これらの非識字者層であり貧困層の黒人やムラットをチームに招き入れ、リオの名門ボタフォゴ、フラメンゴ、フルミネンセ、アメリカなどのクラブチームを相手にリーグで優勝した時から、白人のサッカーにおける優位な立場が徐々に崩壊していったという。


 そして、1919年の南米選手権の英雄アルトゥール・フリーデンライヒ(ドイツ人とのハーフ)と1930年、40年代のワールドカップの英雄レオニダス・ダ・シルバの登場は、ブラジルのサッカー界における黒人選手の社会的立場の向上を決定付け、英国式サッカーから脱皮した人種混合のブラジル式サッカーが開花する。そして、その後ジジやガリンシャなどの白人種以外の英雄が活躍し、後に「サッカーの王様」の称号が与えられた若干17歳の少年ペレが、1958年のスウェーデン大会において衝撃的なデビューを果たし、ブラジルにおける黒人選手の立場も大きく変化を遂げるのである。


 ただ、欧米諸国同様に政治的に正当化されていた当時のブラジルにおける人種的偏見や差別が、偶然かもしれないが、リオデジャネイロにおいてはブラジルの一般社会とは違った様相を呈していたことだけは特筆されるべきだろう。

 例えば、ブラジルの代表的な音楽サンバが活性化したのは奴隷解放以降、バイーア州などブラジル各地の黒人がリオデジャネイロのプラッサ・オンゼ地区やエスタッシオ地区に集結したことから、サンバはこの地の下層階級の人々の心の声を表現する音楽として確立する。欧米にサンバが音楽として認知されるのは1940年代に入ってからであり、黒人によって作られた音楽が最初にブラジルの文化として受け入れられたのはこのリオデジャネイロであった。


 また、日本人移民が初めてブラジルに移住する1908年以前から根強く日本人移民導入の反対運動を展開してきたブラジル国内の知識層の中で、1924年にアメリカ合衆国が行った日本人排斥運動を「イエロー危機」ではなく「グリーン危機」(無毛の森林地帯を無活用のまま放置する危機)だと批判し、初めて日本人移民を支持したブルーノ・ローボ教授もリオデジャネイロ連邦大学の人であった。


あとがき


 ブラジルで初めて白人以外のサッカー選手をチームに招き入れたヴァスコ・ダ・ガマ・レガッタ・クラブがたまたまリオデジャネイロにあったというだけかもしれないが、人種的偏見が政治的にも社会的にも当然となされていた時代のブラジルで、その偏見が人間としてあってはならないものとしてとらえていた知識層の多くがリオデジャネイロに集結していたことも偶然なのだろうか。

 いずれにしても、これら人種的差別や偏見の不条理を愚かなことと認識し、その不条理に立ち向かう勇気を持った人々の存在が、今の優雅なブラジルサッカーのスタイルを誕生させる根本的な要素となったことには間違いない。