執筆者:岩尾 陽 氏
(日本ブラジル中央協会理事)
「卸売りから小売りへ」
東京支店では1972年の開店以来、メインのビジネスは大企業向けの融資や輸出入ファイナンスを中心に展開してきましたが、90年代に入るとバブルも崩壊し、大企業向けの融資、あるいは大口預金の取入れも徐々に減少し始めました。70年代の企業向け融資が減少し、80年代に入ると、企業からの大口預金などの取入れへのシフトが起こりました。つまり、一つのビジネスが衰退すると、幸いなことに新しいビジネスが台頭し、その結果、東京支店も好業績を継続することが出来ました。そして、90年代に入って、企業の財テクに終止符が打たれ、大口預金などによる資金調達が徐々に困難になり始めたちょうどその時に、またビジネスで大きなシフトが起きました。
丸の内にあったブラジル銀行東京支店は、もともと不特定多数の個人客を想定しておりませんでした。 勿論、一階には預金や送金の窓口があり、大理石をふんだんに使った立派なカウンターがありました。このエッセイの始めの頃に書きましたが、一見、ホテルのレセプションのような雰囲気でしたから、一般の方が立ち寄られることはほとんどありませんでした。 しかし、90年代の初頭から、窓口にちらほらとジーパンにTシャツ姿の日系ブラジル人が、ブラジル向けの送金や日本で稼いだお金を預金するために来られるようになりました。その服装が悪い訳ではないのですが、当時の丸の内の雰囲気は再開発の進んだ今のようにお洒落な雰囲気はなく、どちらかというとダークスーツのビジネスマンだけの村みたいな場所でしたから、ジーンズとTシャツはなんとなく場違いな印象でした。90年代の終わりまでの丸の内中通りなどは、原則としてビルの一階には飲食店を禁止、ショップもエルメス、バカラなど有名ブランドのアンテナショップだけという、実に地味というか、あえて色でいうと灰色な雰囲気でした。日本経済も衰退期に入り、中通りには活力が感じられませんでした。 春と秋に開催される丸の内中通のワゴンセール「グランマルシェ」だけは数日の期間中に数十万人のお客様を呼んでいましたし、2000年前後からは、年末の恒例行事となった丸の内イルミネーションが始まり、それらが地味な丸の内では数少ない賑やかなイベントでした。
話を元に戻します。ぽつりぽつりと窓口に現れる日系ブラジル人に話を聞いてみると、彼らは近県の工場地帯で働くブラジルからの出稼ぎ労働者でした。詳しく聞くと、すでに相当数の日系を中心としたブラジル人が日本に働きに来ていると言うことでした。
日本はバブルが崩壊した直後でしたが、まだまだ地方の工場などでは労働力が全く不足しており、工場では長時間の残業も普通でしたから、彼らの手取り給料も、多い人では40万円ほど稼ぐ人もいたようです。おりしも円高の時代で、その円をブラジルに送金すると、ドル建てで3,000ドル以上になりました。 ブラジルでは普通の人が工場の組み立てラインで働いて3,000ドル相当のお金を稼ぐことは大変難しかった時代でした。ブラジル経済自体が大変に苦しい時代でしたから、親兄弟、親戚、友人と口コミで日本での就労の話が広がり、日本への出稼ぎブームが起き始めた時です。昨日までブラジルの田舎の農園で働いていて、銀行口座などにも馴染みがなかった人々や、学校の先生、医師、歯科医、エンジニアなどのレベルの高い仕事に就いていた人々も、日本での高収入を目指して日本にやって来るようになりました。
出稼ぎという言葉通り、当時、日本に働きに来た方は、短期で目一杯残業し、お金をブラジルに送金するために来日するのが目的でした。地方の工場勤務が大半でしたから、給料は地場の地銀や相互銀行などのあまり外国送金に慣れていない銀行に振り込まれましたので、少しお金が溜まると、ブラジル銀行東京支店までわざわざ送金、あるいは貯めたお金をドルに換えておくためにやってきました。 彼らと話して分かったのですが、当時は、ほとんどの方が来日時には日本にブラジル銀行の支店があるなどとは夢にも思わなかったようでした。最初にそのことを知った人が口コミで友人に伝え、少しずつ東京支店に来るブラジル人が増えていきました。
「工場の社員寮で送金業務をお勧め。」
窓口に来る日系ブラジル人の方々と話をして分かったのは、東京支店まで週末や休日にわざわざ出てこられる人は限られており、東京まで来られない方々は地方銀行や近場の中都市にある富士銀行などで、高い手数料を払って母国へ送金しているという事でした。私としてまず思ったのは、この送金業務が東京支店にとって大きなビジネスになる、という事よりも、せっかくブラジルを代表して長い間日本で活動している我々が、何とか出稼ぎの方々のお役に立てないかということでした。苦労して日本まで働きに来た方々が、日本の銀行で多額の手数料を取られているのを何とか助けられないかという思いでした。ブラジルの旗を背負っている以上は、オーバーに言えば人道的にもブラジル銀行が一肌脱がずにどうするのかという、強い憤りに近い使命感のようなものを感じたのを忘れません。ですから、まずは邦銀と比較して非常に安い送金手数料を設定し、一定金額以上の預金客には月一回の送金手数料を無料にしました。調べていくと、東京近郊では神奈川県、静岡県、群馬県などの工場地帯に比較的ブラジルからの労働者が集中していることが分かりました。またトヨタ自動車のある愛知県、マツダのある広島県などにも多くのブラジル人が就労していることも判明しました。そこで、窓口にみえたお客様に紹介していただいて、彼の勤務する工場などにブラジル銀行のポパンサと呼ばれる預金と、ブラジル向け送金サービスの案内に行く事にしました。
開店以来20年間のブラジル銀行と東京支店の顧客の大半は大企業であり、私も個人的にはその企業の財務担当取締役や部長さんとのお付合いが殆どでしたが、業務が180度の方向転換をしたことで、私の行動範囲も地方の工場地帯中心に大転換となりました。 例えば、地方にあるソニーの工場などに行き、総務課の方に挨拶をし、工場で銀行業務の案内をさせて頂くお願いをしました。理解のある担当者は、「ではランチタイムに、食堂にテーブルを用意しますから、そこで説明をして下さい。」と許可をしてくれました。 皆さんがランチタイムにゾロゾロと工場から食堂に入ってくるところや、食事を終えて出ていくところで銀行のパンフレットを渡してポパンサや送金の説明をしました。 私はずっと比較的大きな繊維工場で育ちましたので、父親も周りの人々も皆、グレーの工場制服と、それと同じ色と生地のキャップを被って働いていましたから、工場に対するアレルギーは全くなく、むしろ工場訪問はなにかとても懐かしい感じがしました。工場によっては、勤務時間内の銀行業務説明は認めて頂けませんでした。代案として、勤務終了後に社員寮でならOKという場合もありました。 我々は夜の8時頃から寮の広間で説明会を開きました。 夕食やお風呂を済ませた方々が、ジーンズ姿やパジャマ姿で集まって下さいました。我々は、提供する預金、送金サービスが他行に比べると絶対に優れているという自信が100%ありました。ブラジル銀行の送金サービスは「早い、安い」と吉野家の牛丼のようなキャッチフレーズで、とにかく、集まって下さった皆様に最高のサービスを提供出来るのだと自負していました。 しかし前述のとおり、大半の方々が日本にブラジル銀行の支店があることすら知りませんでしたし、おまけにブラジル国内でのブラジル銀行の評判は、概ね「エラソーでサービス精神に欠ける」などと、あまり芳しくなかったようで、最初の頃は私たちが「皆様にとって、絶対良いお話です。」と説明しても、パジャマ軍団からは白い目で見られたこともありました。 その頃、つまり90年代初頭の日本では日系ブラジル人社会には未だ生活面でTVや新聞などの情報インフラも整備されていませんでした。新聞ではようやく、「インターナショナルプレス」や「TUDOBEM」がイレギュラーな誌面サイズで販売を始めた頃でした。 随分後で知ったのですが、私たちが工場の食堂や社員寮で送金や預金サービスを説明していたのと同じ頃、インターナショナルプレスの創立者である村永さんも、創刊間もない新聞を、いろいろな工場の門の前で手配りしていたと聞きました。今となっては本当に懐かしい、ブラジル人労働者向けビジネスが誕生した頃のお話です。
「日本語の授業の後で、銀行の説明」
その少し前の頃ですが、私は東京からやや離れた町に住んでいましたので、自宅の近所には電機や薬品関連などの工場が幾つかありました。当時、私はテニスに嵌っており、週末に雨が降らなければテニスコートに立っていました。 ある時、テニスの帰り道に近所のコンビニに立ち寄ると、レジで何か困っている5~6人の人たちが居ました。彼らが話しているのがポルトガル語であり、日本に働きに来ている日系ブラジル人と、その配偶者のブラジル人だという事がすぐに分かりました。 何で困っていたかは忘れましたが、私がコンビニ従業員との間に入り、問題は片付きました。 それから、彼らの話を聞いてみると、近所の工場で働いており、そこにはブラジル人が60名程来ているとの事でした。住んでいるアパートも私の家からそれほど遠くありませんでした。まだ、前述の新聞「インターナショナルプレス」もなく、もちろん「GLOBO」などのTVサービスも無かった時代でした。 東京支店には週に一度、本店から 「JORNAL DO BRASIL」 「O ESTADO DE SAO PAULO, 」「GAZETA MERCANTIL」など数紙がまとめて届いていました。 2週間もすると読み終えた結構な量の新聞が溜まりました。また、まだまだブラジル食料品店も殆どない時代でしたが、時々フェジョアーダの缶詰やパウミットの瓶詰などが手に入りました。 それが少し溜まると、それを持って、近所に住むブラジル人の住むアパートにお土産として持って行きました。本国の情報に飢えている彼らは大層喜んでくれました。私は彼らにアミーゴとして受け入れて貰えたようで、たまには私が持って行った食料と、彼らが買ってくれたビールを、アパートの二段ベッドに座って一緒に飲んだり食べたりするようになりました。私の名前は陽(あきら)ですから、私は彼らから「アキーラさん」と呼ばれていました。ある日、リーダー格の男性から「アキーラさん、我々に日本語を教えてくれませんか?」と頼まれました。 生徒は約50名です。 授業場所は会社の会議室が借りられる。時間は日曜日の朝9時から12時まで という事でした。 半年くらいやって欲しいと言われたので、それ位なら何とかボランティアで出来るだろうと、あまり深く考えずに引き受けました。前述の通り、当時の私は旅行や長期出張などの用事がない限り、晴れた日曜日の午後は必ずテニスコートに行っておりましたので、午前中の9時から12時まで日本語の先生をするのはそれほど大変ではありませんでした。 それでも、最初から半年ではなく、2,3年やって下さいと頼まれていたら、おそらく断っていたと思います。さて、その頃既に東京支店ではブラジル向けの送金やポパンサを始めていましたから、毎回日曜日の日本語授業が終わると、銀行業務の申込用紙やパンプレットを渡して宣伝させてもらい、結果的に大勢の生徒が銀行のお客様になってくれました。後年大きく育った送金ビジネスも、最初はそうした小さな活動の積み重ねだったのです。日本語の授業は結果的には丸5年続きました。生徒は休みたい時は休みますが、私は一人でも生徒が来る限りは教えに行きました。暑い夏も寒い冬も、風や雨の日も欠かさず、気が付いたら半年の予定が5年に及んでいました。 今でも我ながらよくやったと思います。 生徒との交流が楽しかったから長続きしたのだと思います。 日本語授業を始めた頃はブラジルの新聞、テレビ番組も無く、もちろんブラジルレストランやブラジル人向けの美容室なども殆どありませんでしたから、彼らの日本語学習に対する熱意は強いものでしたが、5年目くらいになると、そうしたポルトガル語の生活インフラがどんどん整備されるようになり、日本語学習に対するモチベーションは急速に下がって行きました。 私はポルトガル語インフラの整備による彼らの生活の質(QOL)の向上を我が事のように喜びましたが、その反面、日本語に対する熱が冷めていくのを寂しく感じた事を思い出します。
「みんなが笑った現金書留」
さて、ブラジル銀行東京支店の窓口には、日を追って沢山のブラジル人がやってくるようになりました。特にゴールデンウイークやお盆、年末年始の時期は、製造工場も長いお休みになるので、普段の何倍ものお客様が、文字通り支店に押し寄せる事になりました。今でも覚えていますが、ある年のゴールデンウイークの時には、一日に1,000人近いブラジル人顧客の来行がありました。支店のあった丸の内3丁目、今の、国際フォーラムや有楽町ビックカメラの辺りは、大げさに言うと騒然とした雰囲気になったことさえありました。これほど多くのお客様が地方から休みを利用して来てくださることは大変うれしい事でした。しかし、交通費も時間も掛かります。もし、地方にいたままでブラジル銀行東京支店と取引が出来たら、日本の各地で働くブラジル人の方々にも、もっと喜んでいただけるだろうと思いました。どうしたら可能だろうか?と考えました。答えは簡単でした。 日本が誇る現金輸送システムである「現金書留」の利用です。 予めブラジル人の集まるレストランやスーパーマーケットなどに、ブラジル向け送金やポパンサ預金の申込書と一緒に現金書留キットを置いてもらい、お客は、その申込書に必要事項を記入し、送金や預金の希望金額を封筒に入れて東京支店に送ってもらえれば、それは本人が銀行に現金を持ってやってくるのと同じ事なのですから。 ジャズの名曲に「They all laughed.(みんな笑った)」があります。フランク・シナトラやビリー・ホリデイをはじめ、大抵の歌手はレパートリーにしています。何か新しいアイデアについて、よく人は馬鹿にして笑うよね。 私の貴方に対する愛も皆笑ったよね。絶対に成就しないって。でも最後に笑うのは誰かな? みたいな歌詞で始まります。少し詳しく歌詞を見ると、「クリストファー・コロンブスが地球は丸いと言ったらみんな笑ったね。エジソンが音を録音した時、みんな笑ったね。ライト兄弟が人は空を飛べると言ったら、みんな笑ったね。マルコーニの無線はインチキだって、みんな笑ったね。 でも最後に笑うのは誰かな? 」 こんな歌詞です。
ある日の銀行での会議の席で、私は日本各地に住むブラジル人への銀行サービス提供のツールとして上記の現金書留を提案しました。 ブラジル人メンバーが大半の会議でしたから、最初の反応はThey all laughed!でした。 「郵便のセキュリティが悪い事に慣れているブラジル人が、現金が入っているのが明らかな封筒などを郵送する筈がないよ。」と言った反応でした。 しかし、会議での結論は、「まずはやってみよう。」という事になりました。それから間もなくすると、東京駅南口にある中央郵便局から毎日、大量の現金書留の入った大きな箱が届くようになりました。少し前までは静かだった支店の内部が一挙に流れ作業の工場に様変わりしました。 毎日1000通ほどの現金書留が届きます。封筒を機械で開封する人、お金を勘定する人、申込書類をチェックする人、送金システムにインプットする人と順番に送金が処理されます。
結果として、現金書留は大成功でした。しかし問題もありました。実際に入っている現金と申込書の金額が一致しないことや、お客様の勘違いでそもそも現金が封筒に入っていないことも時々ありました。送金依頼書に書かれた癖のある文字が読めなくて、いちいち依頼人に電話で問い合わせなければならないことも多々ありました。
笑い話のようなこともありました。 日本でも、例えば○○銀行の書類の書き方サンプルで、依頼人の名前に〇〇太郎などと書かれていることがよくあります。我々も送金依頼人の名前サンプルとして、その名前をブラジル人なら誰でも知っているSilvio Santosを使いました。 驚いたことに、その後我々は沢山のシルビオ・サントスさんからの送金依頼書を受け取ることになりました。
(続く)