執筆者:岩尾 陽氏
(日本ブラジル中央協会理事)

「丸の内署始まって以来の銀行強盗事件」

既に書きましたように、90年代初頭からブラジル銀行東京支店には、ブラジル向け家族送金や、日本で受け取った給料を蓄えておく預金をする為に、日系ブラジル人を中心とした個人のお客様が大勢押し掛けるようになりました。 特に、彼らが主として働いている地方の工場が休みになる時期、すなわち年末年始、ゴールデンウイーク、お盆の頃には物凄く大勢の方が東京支店を訪れました。皆さんが現金を持ち込みますから、支店には多額の現金が集まっているだろうというのは、銀行の前を通れば一目瞭然でした。そうなるとセキュリティに対する配慮も以前に増して必要となりました。

当然、銀行としても警備会社からより多くの警備員を派遣してもらい、防犯には神経を使っておりました。ちょうどその頃、たまたまブラジルに出張する機会がありました。サンパウロからリオデジャネイロに移動し、仕事を終えてホテルに着きました。その当時は携帯電話が普及し始めた頃で、まだ今日のようなスマートフォンはありませんでした。ですから、モーニングコールもベッドサイドにある電話器を使いセットします。翌朝6半にセットし就寝しました。 しばらくすると電話の音で目が覚めました。まだあんまり眠っていないのに、もう朝が来たのかと思い受話器を取ると、日本からの電話で、東京支店に強盗が入ってという緊急連絡。犯人はカウンターを飛び越えて、2千万円ほどの現金を奪い逃走したとの事でした。私はまず、行員の誰かが怪我などに巻き込まれたりしなかったかを確認しました。お陰様で行員は無事でした。犯行はあっという間の事で、犯人は素早く逃げ去ったとの事でした。

その後、移動中の空港などで日本と連絡を取り合いましたが、段々と被害の様子が明らかになり、最終的には被害が20万円程度に減少していきました。後で知ったのですが、この事件は東京支店を所轄する丸の内警察署における最初の銀行強盗事件でありました。マスメディアにも少し報道されました。 日本に帰国後、知人たちからは「たったの20万円で全国にブラジル銀行の名前を覚えてもらうとは、安い広告宣伝費でしたね。」と皮肉を込めて笑われました。どの企業でも、そこに長く務めると色々な出来事があるでしょうが、強盗事件を経験した銀行員も日本ではあまり居ないのではないでしょうか。

 

「浜松出張所開設」

その後、日本に働きにやって来るブラジル人の数は順調に増加しました。全国各地の工場に働く方が大半でしたから、必然的にトヨタ関連企業の多い愛知県、ホンダやスズキ関連企業の多い静岡県、スバルや三洋電機の工場があった群馬県に大きな集中がありました。東京支店でも、そろそろブラジル人の多い場所に銀行の店舗を開こうという事になりました。支店開設許可をとるのはなかなか時間がかかり大変でしたので、まずは出張所からスタートしようという言う事になりました。 今でもはっきり覚えていますが、ブラジルから来ているマネージャーと大阪に出張中の新幹線のシートで、どこの街に出張所を開くかを話しました。予想される将来の顧客候補の集中度という点では名古屋市内に第一号を開けたかったのですが、果たして店舗開設の様々なコストやリスクが投資に見合うか考えた場合、名古屋ですとオフィスの賃貸料、職員の給与水準が相当高く、採算面での確信を持てませんでした。

名古屋に劣らずブラジル人が多く住んでいる浜松は、私の出身地であり私に土地勘がありました。 友人が地元で大きな不動産業者を経営しており、オフィス探しに便宜も図ってもらえます。事務用のデスクなどの調度品や什器、銀行の看板製作、電話番号取得などほとんどの分野に私の高校の同級生が居りました。第一号店舗としては、名古屋に比べれば遥かに低予算、低リスクで業務が出来ると考えられました。

新幹線のシートで私とブラジル人マネージャーの二人で、ブラジルの本店には浜松拠点で申請する事を決めました。ほどなく本店から浜松出張所開設許可が下りましたので、すぐに当時の監督官庁であった大蔵省に拠点開設認可を申請しました。拠点開設の必要性、立ち上げ後数年間の収益計画、銀行経験を持つ人員採用計画とその配置などを詳述した申請書を書き上げ大蔵省に提出しました。その後、何度か追加説明に大蔵省に出向きましたが、なかなか許可が下りません。大蔵省の建物は古めかしく威厳があり、薄暗い廊下に赤いカーペットが敷かれています。それが訪問者に何とも言えない威圧を与えているように、訪問するたびに感じました。許認可権限を持つご当局ですから、こちらから早く許可を出してくれ、とは正面切って言えるような関係ではありません。しかし当方もいつまでも待てない事情もあります。こんな時はやはり、浜松に所縁のある政治家に協力をお願いするのも止むを得ません。幸いなことに浜松出身で元大蔵官僚の有力政治家であるYさんが前述の不動産会社社長のお知り合いでした。その縁を頼って、当時はある省庁の政務次官をされていたYさんをお訪ねし、出張所開設認可へのお力添えをお願いに行きました。その数か月後にやっと開設許可が下りました。

 

「フライングぎみの浜松出張所」

前述の通り、支店開設許可がなかなか下りない間にも、オフィスを探し、デスク、椅子、什器備品の調達、人材の採用などは着々と進んで行きました。オフィスは友人の不動産会社社長のお勧めで、浜松駅と浜松市庁舎との中間に位置するビルに決まり、電話番号は、高校の同級生が当時NTT静岡労働組合の重鎮でしたので、彼を頼って、代表番号は東京と同じ末尾の6511、所長直通番号は東京の私の直通と同じ6535を貰いました。 ビルの外に掲げる大きな看板は、同級生のお兄さんが看板屋さんでしたから、彼に頼んで立派なものを随分と安く制作してもらいました。 事務所準備の間は頻繁に浜松に出張し、準備の進捗を点検にいきましたが、仕事が終わった夜は、東京から同行したブラジル人マネージャーも交えて、店舗の準備を手伝ってくれた仲間と居酒屋で一杯やりました。 それすなわち気心の知れた高校の同窓会でしたから楽しい思い出でとなりました。

それはさておき、拠点の整備が整って来ましたので、我々は大蔵省の許可が出るまで、その場所を利用してブラジル銀行のサービス内容の説明会を毎日行うようになりました。すでに看板も上がっていますので、沢山の浜松近郊在住のブラジル人が正式許可前の事務所にやってきました。ある意味フライングすれすれの状態でした。それがご当局、つまり大蔵省銀行局の耳にも入ったようで、担当者から私宛に、「まさか銀行業務を始めてはいないでしょうね?」との、お叱り調の問い合わせもありました。あの時は慌てました。フライングすれすれでやっている事は重々認識していましたので、すぐにビルの壁面の大きな銀行看板にシートを被せ、サービス説明の為の店舗利用も止めました。しかし、急に看板を隠したりすることにより、近辺在住のブラジル人顧客に、ブラジル銀行はひょっとして日本から撤退するのではないかと思われてしまう可能性がありました。 日本撤退のような宜しくない風評が広がると、それが東京に波及して、パニックになった顧客が東京支店に殺到し、一種の取り付け騒ぎになるのではないかという心配が生まれました。 その時から正式許可が下りるまでの間は本当にそれが心配で、私の方がパニックになりそうでした。

 

「遂に浜松出張所が開店」 

色々ありましたが、遂に大蔵省から出張所開設の許可が正式に下り、1993年2月14日に浜松のホテルで開店披露パーティを盛大に開くことが出来ました。浜松市からは市長を始めとした要職の皆様、ホンダ、スズキなどの地場の一流企業の皆様、工事関係者などをお招きしました。本店からjは、当時のカリアリ総裁、国際部取締役など、そしてロンドン、パリ、ニューヨーク、ロサンゼルス、ローマ、シンガポールなどの支店長達もパーティに駆けつけてくれました。

パーティ前日に海外組は東京に到着しホテルで一泊し、翌日に新幹線で浜松に向かう事になっていましたが、到着日は関東に数年ぶりの大雪が降り、都内も20センチほどの積雪となりました。その影響で総裁の乗るジェット機は成田に着陸できず急遽札幌に着陸となりました。札幌空港の床で一晩明かしたカリアリ総裁にとってはとんだ災難でしたが、パーティ当日は浜松祭りの法被を着て、ご招待客と一緒に樽酒の鏡開きなどをして、結果としては大層思い出深い開店記念行事になったと思います。

また、開設許可でお世話になった大蔵省OBの国会議員Yさんにもゲストとして祝辞と乾杯の音頭を取って頂きました。浜松出張所はお陰様で予想を上回る大成功となり、東京同様に年末年始、ゴールデンウイークそしてお盆の時期には店内に入り切れないほどの人で溢れかえるようになり、数年で浜松も出張所から支店に格上げとなりました。 出張所開店の翌年、つまり1994年、浜松のシンボルであり、浜松駅前に聳え立つ45階建ての浜松アクトタワーが完成しました。アクトタワーの一階には、静岡の地銀の雄である静岡銀行が店舗を構えました。数年後、静岡銀行はアクトタワーから撤退する事になりました。その情報をキャッチし、すぐにビルのオーナーである第一生命を通して接触を試み、金庫を含む設備をそのまま居抜きで借りるから、その分賃料を格安でお願いしますと交渉し、ブラジル銀行が浜松市で一番目立つアクトタワーの一階に引っ越すことが出来ました。銀行が移転するときに、一番問題となるのは、堅牢な金庫を破壊して、賃貸していたオフィス物件を現状復帰させることです。堅牢な金庫を壊して元に戻すのには大きな資金負担が掛かります。アクトタワーのオフィスに関し、我々は金庫をそのまま借りることが出来、ゼロから金庫を作る莫大なコストを回避出来、静岡銀行は原状復帰の資金負担を回避するという、ウインウインの取引が出来ました。

 

「名古屋支店開設」

浜松出張所は開設当初から順調な滑り出しを見せ、計画以上の収益を上げる拠点に育って行きました。 そして、その2年後の1995年に、いよいよ当初から本命であった名古屋支店の開設準備に取り掛かりました。名古屋には浜松のような人的コネクションがありませんでしたから、支店の場所選びは、まず信用のおける地場の不動産業者探しから始めました。 在名古屋ブラジル領事館の近くがお客様に便利だろうという事で、名古屋駅を起点とする桜通りに狙いを定めました。少し前まで大手住宅販売会社の事務所として使われていた場所が桜通りに見つかりましたので、早速現地に見に行きました。しばらく放置されていたオフィスでしたので、古いデスクや椅子が放置されたままになっており、お世辞にも綺麗な所ではありませんでしたが、住宅販売でそれなりの現金を扱っていたらしく、何とか銀行でも使えそうな金庫室がありました。銀行のオフィスにとって金庫は大切ですが、金庫室をゼロから作るのは大きなコストアップとなりますから、我々は金庫室付きのその物件を躊躇なく借りることにしました。

よく一般の住宅でもリフォームの前と後、つまりビフォーとアフターを比べて、そのあまりの違いにビックリする話がありますが、オフィスも同様で、名古屋の物件もリフォーム後は当初の物とは比較にならないほどに綺麗なオフィスに生まれ変わりました。大蔵省に対する支店開設許認可も、浜松の時の経験がありますので、比較的スムーズに運び、特に苦労した記憶がありません。そうして名古屋支店も1996年に順調に立ち上がりました。名古屋支店の場所は桜通りに面し、日本銀行名古屋支店や長期信用銀行名古屋支店にも近い金融の中心地である名古屋市中区丸の内にありました。1998年に長期信用銀行が経営不振で破綻し、支店のあった場所が賃貸に出されましたので、より広い場所を探していたブラジル銀行はすぐにビルオーナーと交渉し、旧長銀名古屋支店のあった場所に移転しました。

栄枯盛衰、盛者必衰とは言いますが、1980年代には日本の銀行は世界の銀行番付のベストテンに沢山ランクされていましたし、生命保険会社は「ザ・セイホ」と呼ばれて世界に勇名を馳せたものです。 バブル真っ盛りの頃には日本企業がアメリカの企業、有名ビルディング、名門ゴルフ場などを買い漁って随分と顰蹙を買うほどだった事はまだ記憶に新しいところです。そして、日本の金融界で働く人々にとっては、日本興業銀行や長期信用銀行は「興長銀」と呼ばれ、当時の都市銀行の代表であった三菱、住友、三井、富士、第一勧業などより一段各上のスーパーエリートの集まりと言われていました。しかし残念ながらバブル崩壊に伴い興銀、長銀、そして日本不動産銀行も皆消えてしまいました。そして上記の都市銀行もその後、合併などを経て数も減り、銀行名も変わってしまいました。諸行無常、世の移ろいを痛切に感じさせられた時代でありました。 しかし工場などの人材不足はまだ続いており、ブラジル銀行の顧客である日系ブラジル人の数も30万人を超えるほどになっており、我々は東京、浜松、名古屋に次ぐ第4の拠点作りの準備に入ります。

ブラジル銀行日本支店開設物語 その4
http://nipo-brasil.org/archives/13242/

ブラジル銀行日本支店開設物語 その3
http://nipo-brasil.org/archives/13147/

ブラジル銀行日本支店開設物語 その2
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ブラジル銀行日本支店開設物語 その1
http://nipo-brasil.org/archives/12882/