執筆者:岩尾 陽 氏
日本ブラジル中央協会 理事
「ブラジル木(Pau Brasil)について、もう少し」
このエッセイの第一回目に、ブラジル国の名前の由来となったブラジル木(Pau Brasil)について少し書きましたが、今日バイオリン弓材として世界最高と称されるPau Brasilですから、その発見と、なぜ赤い染料がヨーロッパに渡ってバイオリン弓材に採用されたのかに就いて、少し追加のお話をさせて下さい。
皆様も良くご存知のように、世界史でも有名なポルトガルの航海士バスコ・ダ・ガマは、インド航路の発見に熱心だったポルトガル王マヌエル一世の命を受けて、第一回インド航路発見の航海に出ました。 当時のヨーロッパでは大航海時代が始まっており、ペルシャやインド、中国などとの交易が始まろうとしていた時代です。
特にインドには「赤色の染料」として当時から大変に貴重であった蘇芳(すおう)がありましたので、ヨーロッパ各国は競ってインドから蘇芳を母国に輸出しました。その第二回目の航海の司令官が、ブラジル大好きな読者の方々なら皆ご存知のペドロ・カブラルでありました。ですから、カブラルはポルトガルを出発し、当然インドを目指していたのですが、幸か不幸か彼らの船は1500年年4月にブラジル、現在のバイア州辺りに漂着してしまいました。現代の地図を当たり前に見慣れている私達には、アフリカ西海岸を下り、喜望峰を回ってインドへと進むルートは一目瞭然ですが、まだまだ大航海時代の幕開けの頃には、地図、海図、航海術などは整備されておりません。まして、ブラジルはまだ地図にも載っていなかったのですから。 で、どうなったかと言うとカブラルは進路を間違った結果、偶然ブラジルに漂着したらしいのです。まあ結果的にこれで、カブラルがブラジルという場所の発見者として目出度く名を残すことになる訳ですが。今思えば何とも頼りない話ですが、別の見方をすると、物凄い冒険とロマンに満ちた話だとも思います。さて、漂着したブラジルで彼らが目にした物の一つが、貴重品であったインドの蘇芳と同じ種類のマメ科の植物でした。当然のことながら、以後、各国が競ってその木を伐採しヨーロッパに持ち帰りました。その余りの乱伐のために、第一部で述べたようにブラジル木(Pau Brasil)はワシントン条約の絶滅危惧種付表IIに登録されてしまう訳です。因みに、蘇芳が赤の染料としてどれ程貴重であったかに関しては、すでに奈良時代に、我が国にも蘇芳が中国経由で輸入されており、正倉院に収蔵されている事実があるようだと、現代の染色家である吉岡幸雄氏がJALの会員誌である「AGORA」の 2015年11月号の中で話されています。
「バイオリンという楽器と、それを奏でる弓について少し」
私も多くの方々と同じように、ペルナンブコ州で採れるPau Brasilが世界で最高峰のバイオリン弓の材料だと言うことを、バチスタさんの弓材に出会うまでは知りませんでした。それでも、バイオリン本体の製作に関して、アマティ・ファミリー、グァルネリ・ファミリー、そしてアントニオ・ストラディバリなどの錚々たるバイオリン職人を輩出したイタリアのクレモナという町の事は知っていました。 しかし、弓の製作についてはフランスのパリがその聖地であるという事が専門家の間では常識になっていた事に、私はペルナンブコ材と関わることになる10数年前には寡聞にして知りませんでした。ではここで、少しだけバイオリンとして最も有名なストラディバリついて述べた後、PauBrasilと大いに関係のあるフランス弓の歴史に就いても簡単に述べてみたいと思います。
大抵の方がご存知の通り、一般的にストラディバリウスと呼ばれているのは、イタリア北部の小都市クレモナで、17世紀末から18世紀はじめに活躍した名工アントニオ・ストラディバリが作成したバイオリン作品群のことを言います。ストラディバリウスはバイオリンの最高峰と言われ、その美しい音と豊かな音量そして芸術品としての価値のために、一流演奏家やコレクターが求めて止まない楽器です。生涯の製作本数は2000本とも言われますが、現存するものは僅かに500挺程度というその希少性から、現在では数億円は下らない価値があります。
ストラディバリ黄金期1717年の作品「ハンマ(Hamma)」
最近、何かと世間を騒がせているZOZOの前澤社長が購入して評判となった作品。
ストラディバリが製作したバイオリンはイタリアン・ルネッサンスが生んだ傑作と言われており、世界的な人類文化遺産です。 クラシック音楽にそれほど造詣が深くない人であっても、非常に精巧に作られた芸術品や最高の製品に与えられる代名詞としてストラディバリウスの名前を知っているのです。イタリアン・バイオリンの歴史の中では、他にもアマティ・ファミリーや、現在でもストラディバリと人気を二分するグァルネリ・デル・ジェスやグァダニーニ(ガダニーニ)などの著名なバイオリン製作者が居ました。
一方、バイオリンの弓において最も素晴らしいと評価されているのは、フランス製の弓、フレンチ・ボウです。バイオリン本体は17〜18世紀前半にかけてイタリアで完成されましたが、弓づくりは18世紀後半から20世紀前半にかけて、フランスにおいて近代弓が発展しました。これはフランスがヨーロッパにおいて、いち早く近代化を成し遂げ、文化の中心となったためです。それまで王侯貴族達が所有した名器が、フランスのパリを中心に集まることとなり、宮廷音楽から市民階級を対象としたホールでの演奏に移って行きます。加えて作曲形態や演奏方法も古典派からロマン派へと複雑化していき、より大きな音量とより優れた演奏性を併せ持つ近代弓が必要となりました。 よくバイオリンの弓は、本体の付属品と見なされることもありますが、実際は演奏家にとって時にはバイオリン本体以上に重要なものでもあります。どんなに素晴らしいバイオリンでも、それを鳴らす弓が粗悪では良い音が出ないのです。さて、そのフランスで弓のストラディバリウスと呼ばれるフランソワ・トルテ(Francois Xavier Tourte1748-1835)が製作した弓は、今日のバイオリン弓の基本となりました。
その彼が様々な材木による弓製作を試みた後で、最高の素材としたのが、当時フランスなどで赤の染料として使用されていたPauBrasil, それもペルナンブコ州産のものでした。ペルナンブコ材はそれまで使用されていたどの材料よりも強度と柔軟性を併せ持ち、形状の保持に優れ、音色が良いものでした。ペルナンンブコ材の導入により、それまで付属品であった弓は、機能性、耐久性、芸術性に優れたものとなり、本体とは別の独立した専門性を持つ楽器として認知されるようになり、現在においても一流演奏家の間で、その高い評価を保ち続けています。彼の生きた時代は、演奏者の技術と音質における変化が、音を創造する道具(=楽器)の刷新を要求した時代であり、弓製作界における変革の時期でもありました。スティックがより長くなり、それまでは月形のアーチのために弓毛の強い張りが出来なかった所に、トルテは逆反りの形状を導入し、バイオリンからより強く大きい音が出せるように改良されました。トルテの後には、ドミニク・ペカット(Dominique Peccatte)、F.N.ボアラン(F.N.Voirin)、E.サルトリー(E.Sartory)などの名工が現れ、名弓の代名詞としてフレンチ・ボウ(フランス弓)が定着する事になりました。
月形(順反りアーチ)から逆反りへ進化し、強度を得た。
「ローマ法皇に招かれバチカンで御前演奏」
日本企業のブラジル法人勤務を終えて日本に帰国していた私が、2013年に再び別の日本企業のブラジル現地法人立ち上げ顧問としてサンパウロに滞在する事になりました。その当時も現在もバチカンのローマ法皇はフランシスコ法皇です。フランシスコ法皇は南米アルゼンチンの出身です。オーケストラの発案者である、私の友人ジョアン・タルジーノは熱心なカトリック信者であり、現ローマ法皇がアルゼンチンのブエノスアイレス大司教の時代から、大司教の秘書をしていた女性(従って、現在の法皇にも親しく物が言える人物)と親しくしていました。その縁で、スラム街の少年オーケストラの活動がフランシスコ法皇の知る所となり、オーケストラが2014年にバチカンに招待され、法皇の前で演奏を捧げると言う栄誉に輝きました。私や文京楽器もバチカンに招かれました。
私はブラジルから、そして東京の文京楽器からは当時の茶木社長と常務取締役だった堀さん、そしてゲスト・バイオリン・ソリストとして、文京楽器と縁の深い、やはりクリスチャンで日本を代表するヴィルトゥオーソの久保陽子さんの4人で、その演奏会に臨席する事が出来ました。勿論、事前の打ち合わせで、オーケストラ側から、是非とも久保陽子さんにオーケストラと共演して欲しいと言う強い要請を受けての事でした。御前演奏まで数か月ありましたが、ブラジルと日本の間、つまりオーケストラと久保陽子さんとの間で、演奏レパートリーを何にするかなどを決めるのが結構大変でした。前述のブエノスアイレス時代の秘書さんから、フランシスコ法皇はバッハの音楽を愛されているという情報を得ましたので、レパートリーはバッハの曲から選ぶことに決まりました。その後日本とブラジルという遠隔地間での譜面のやりとりや演奏曲の順番など色々と細かい点を詰める必要がありましたが、何とかコンサートまでに間に合いました。
結局、以下の曲を法皇に捧げることになりました。
〇バイオリン協奏曲 イ短調 BWV 1041
〇バイオリン協奏曲 ホ長調 BWV 1042
〇2つのバイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV 1043
サンパウロからローマ入りした私と、東京からローマ入りした茶木さん、堀さん、久保さんの三名とは、コンサートの数日前に、彼らの宿泊先のホテルで落ち合いました。その前日の夕刻にローマに到着していた私は、いきなり地下鉄の中でパスポートの盗難にあい、その夜は警察に盗難届を出したり、東京に居る妻にパスポート再発行用の戸籍謄本などの必要書類を依頼したり大変でした。 盗難届は、たまたまホテルから徒歩15分くらいの所にあった警察署の当番警官がとても親切で、また私はイタリア語を話せませんが、普段ポルトガル語に慣れていたので、何とか彼の言っていることが理解できましたし、私も下手なスペイン語でパスポートを盗まれた事を説明すると、それでもなんとか話が通じ、再発行に必要な盗難証明書を発行してくれたました。 大袈裟ではなく、その警官が「地獄に仏」のようでホントに助かりました。イタリア人のおおらかな優しさと、本当の意味の他者に対するオモテナシ精神に感銘を受けました。慇懃無礼なOMOTENASHIではない、もっと根本的な温かみのような感覚でした。
さて、翌日、待ち合わせのホテルに行きました。彼らと夕食を共にしながら、バチカンでのコンサートの打ち合わせなどするためです。ロビーで茶木、堀の両氏と会いましたが、久保陽子さんがなかなかロビーに降りてきません。しばらく三人で待って居ると、ようやく彼女がロビーに降りて来ました。 「ごめんなさい!」の遅刻の訳は、ホテルにチェックインしてからずっと、自分の部屋のバスルームでバイオリンのお稽古をしていたので、時間が経つのを忘れていたとの事です。彼女は、まだ10代の若い頃から世界中の名だたるバイオリン・コンクールに入賞している押しも押されもしない日本を代表する大ベテランのバイオリニストです。しかし、今でも暇さえあれば稽古、稽古。芸術でもスポーツでも学問でも、一流の人物はそれぞれにその道で人知れずに努力精進をしているのでしょうが、久保陽子という音楽家も、そのバイオリンに取り組む姿勢が、そこまでやるのかと思わせる程、何か求道者のようにストイックで、私は強い衝撃と感銘を覚えました。彼女とは、数年後、日本からブラジルのペルナンブコ州レシーフェまで旅行を一緒しましたが、その長旅の途中、トランジットの為に時間待ちの空港ラウンジで、バイオリンに弱音器(ミュート)を付けてお稽古に励む姿は感動的でした。
私が文京楽器関係者と知り合った頃、すでに文京楽器と様々なバイオリン音楽におけるコラボレーションをしていた久保陽子さんとも知り合ったのですが、前述の通り、少年オーケストラとの共演を通して、より深く彼女とお付合い出来ることになりました。
少年オーケストラの招待ソリストとして、フランシスコ・ローマ法皇への御前演奏に参加して頂き、その後もペルナンブコ州の州都レシーフェ市での共演などを通して、オーケストラにバイオリン演奏の音楽的な指導に多大の協力をいただいている彼女について、もう少しお話します。まずは彼女の若い頃に挑戦した幾つかの国際バイオリン・コンクールでの成績です。
- 1962年第2回 チャイコフスキー国際コンクール バイオリン部門 第3位
- 1964年第11回 パガニーニ国際バイオリン・コンクール 第2位
- 1965年第11回 ロン=ティボー国際コンクール バイオリン部門 第2位
- 1967年第1回 アルベルト・クルチ国際バイオリン・コンクール 第1位
こんな感じです。1962年のチャイコフスキー国際コンクールに出場した時の彼女の年齢は、まだわずか18歳でしたが、その後の数年間で上記の国際コンクールで大活躍します。因みに、第2回チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門では、数年前からショパン国際ピアノコンクールなどでセンセーショナルなデビューをしていた、あのアシュケナージが第1位に輝きましたし、1958年に開催された第1回大会のピアノ部門の優勝者は、これまたご存知のヴァン・クライバーンでした。いずれにせよ、こんなに素晴らしい実績、経歴を持つ陽子さんが、縁あって少年オーケストラとの共演をしてくださることになり、ブラジルの関係者も大変に喜んでくれています。次回(3回目)では、バチカンでの御前演奏の様子、その翌年に再びオーケストラ団員達と一緒にローマを訪れ、改めてローマの歴史ある教会を借り切って、前年の御前演奏と同じ曲目を演奏したコンサートの模様をDVDに収録した事や,同じくローマのカトリック神学校の宿泊施設の講堂で、数日多くの時間を費やして徹底的に音質にこだわったCDを製作した話、グァルネリのバイオリンを使っていた久保陽子さんが現在は、バイオリン製作家でもある堀さん製作のバイオリンを使用しているかなどの話をし、その後の数回で、私達関係者全員の夢であった、レシーフェ市に予定しているバイオリンと弓の学校と、少年たちの将来の生活のための商業生産に向けた工場(工房)建設の具体的な進捗状況などについてお話をしたいと思います。 (続く)
追記:当エッセイで紹介された内容につき、文京楽器が4本の動画を作りました。ここでは、エッセイに特に関連する2本を紹介します。
- The Bow Workshop 日本の弓職人たち アルシェ小田原工房
- The Musician バイオリニスト 久保陽子
(YouTubeにて視聴可能)
→連載172:スラム街の少年オーケストラ団員にバイオリンの弓工場を その1