会報『ブラジル特報』 2011年1月号掲載

                    岩城 聡(日本経済新聞社・前サンパウロ支局長)


11月のとある日曜日。出張先の神戸でふと思い立ち、「海外移住と文化の交流センター(旧国立海外移民収容所)」を訪れた時のことだ。

 「1930年3月8日。神戸港は雨である。細々と烟る春雨である」の書き出しで始まる石川達三の「蒼氓」(第一回芥川賞)でも有名な同センター。女性職員に突然、こう声をかけられて考え込んでしまった。 確かに、笠戸丸といえば、サントス港で撮影された船尾に「KASATO-MARU」と書かれた同船が停泊する写真しか見たことがない。くだんの女性曰く、当時の神戸港には笠戸丸のような6000トンクラスの船は接岸できなかった。そのため、移民らはみな遠い沖合に停泊している笠戸丸まで小舟で向かったため、写真が残っていないのだという。

 移民らは出発の日、自分の持つ衣服の中でも一張羅を身にまとい神戸港へ向かったそうだ。小舟に揺られ、やっとの思いで笠戸丸に乗り換え、そして50数日でブラジルへ。
 「この水は 日本に続くとサントスの 海見て一人 つぶやきし母」(川上定子)。 センターに残るブラジル移民がうたった短歌だ。これから始まる“夢の国ブラジル”の生活への不安と、早くも始まる望郷の念。どんな思いで移民たちはサントス港に降り立ったのかと思うと涙が出そうになった……。

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 あれから100余年。ブラジルが今、真の意味で「夢の国」のごとくに喧伝され始めた。ブラジル地理統計院(IBGE)が12月9日発表した2010年7〜9月期の実質国内総生産(GDP)は前期比0.5%増。プラス成長は6四半期連続だ。政府や民間シンクタンクは通年で7%台の成長が達成されるとみる。同国の成長率が7%を超えれば24年ぶりだ。
 中南米の景気回復の中心的役割を担うブラジルは1億9000万人の人口に裏打ちされた堅調な個人消費や、中産階級の拡大による好調な内需を背景にした企業の設備投資が順調だ。2010年上半期の新車販売台数(登録ベース、トラック・バスを含む)は157万9,700台で、世界第4位のドイツとの差は2万台弱。中国、米国、日本に次ぐ巨大自動車市場の誕生も近く、15年には500万台市場になるともいわれる。
 遅まきながら離陸したブラジルという巨体の操縦桿を、新年早々握るのが、ジルマ・ルセフ新大統領(62歳)だ。 建国以来初の女性大統領は、しばらくはルラ大統領がプログラミングした通りに「自動操縦」をしていれば経済は安定飛行だ。2014年のサッカー・ワールドカップ(W杯)や16年のリオデジャネイロ五輪を控え、いやがうえにも過熱する景気の手綱をしっかり握ることに注力する必要はあるが。
 むしろ新大統領の苦労は、2期8年の任期中、新興国の顔として国際社会で引っ張りだこだったルラ大統領の後継者というだけの存在からの「脱皮」だ。
 よせばいいのに、ルラは選挙期間中、ジルマのことを「ミーニャ・プレジデンタ(私の大統領=女性形)」と呼び、「問題を見つけたら我が娘であるジルマに対して『早く解決するように』と電話する」と父親面。当選時、「ルラの勝利」と書いた新聞もあったほどで、今のところ新大統領の“顔”が見えないのだ。

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 顔といえば、ジルマは大統領選挙より1年以上前にしわ取りなど美容整形を早々と済ませ、メガネもやめた。髪形やファッションなど外見は変身したが、そのアドバイスは有名な日系人美容師のアドバイスに従ったらしい。ただ、「ジルマを説得せよ」と、06年、地上波デジタルTV放送の日本方式採用に向けた協議で顔をつきあわせた日本企業関係者からは「ぼさぼさの髪の毛にさえない眼鏡。でも、実務家風だったあのころの方がよかった」と懐かしむ声もある。
 そんな雰囲気を感じ取っているのかは定かではないが、最近、彼女がもっぱら強調するのは、1964年からの軍政下に反政府運動に身を投じ、投獄・拷問を受けたことだとか。隣国チリのバチェレ前大統領(女性)もピノチェト将軍(当時)の軍政で拷問を受け、メキシコ、東欧などを転々とし亡命生活を送った不屈の精神が国民の人気を集めたことにあやかろうとしているのかもしれない。
 とはいえ、「鉄の女」を強調するこの戦法も紙一重。話題のウィキリークスが、米国の機密文書として05年に官房長官に就任したばかりのジルマについて、軍政下に3つの銀行強盗計画の計画をし、その組織作りにかかわったと報告していたと、地元紙が早速、報じている。本人は左翼活動に加わったことは認めてはいるが、武力闘争への関与は否定。任期中、軍政時代のジルマ本人の裁判記録など、いつ、どんな証拠が吹き出すか、今からちょっと不安ではある。
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 さて、新大統領は今後、先進国レベルの国家整備として、インフラ整備を強く推進していくことになる。
 ジルマは別名「PACの母」。政府は10年3月末、持続可能な経済成長や国民の生活改善を目的とした「成長加速プログラム(PAC)2」を発表したが、これはジルマの実績だと言われている。11〜14年に道路や鉄道、住宅などのインフラ整備に9,589億レアルを投じ、15年以降分も含めると総額1兆5,900億レアルを費やす大計画だ。投資額のうち、全体の5割近くをエネルギー分野に充てるほか、高速鉄道や道路などの交通機関や港湾の整備、低所得者向け住宅建設などに資金を費やす。注目されていたリオデジャネイロ—サンパウロ近郊間の高速鉄道事業について、ブラジル政府は入札を来年4月11日に延期すると発表した。長期間にわたって「民間ではリスク負担ができない」と主張してきた日本やフランスの企業連合が応札を見送り、韓国グループが単独で応札する可能性が高まっていた。
 もし、ジルマ新大統領が自らの“顔”を作りたいと思っているなら、内政もさることながら、むしろ他国との関係を重視することで特色を出すことが可能ではないだろうか。
 例えば、この高速鉄道事業において、リスク回避策の確保など、事業計画の見直しなどの真摯な対応をする。それが実現した場合、各国やその企業関係者は「話のわかる政権」として、大国の新たな元首を拝顔し、他の国家事業への外資参入もよりスムーズに進むはずだ。

インフラ投資計画「PAC2」の概要(2011~14年、総額9,589億レアル)
●「よりよい都市」 571億レアル 下水完備、防災工事、道路舗装など
●「市民共同体」 230億レアル 救急医療拠点や託児所の拡充
●「私の家 私の人生」 2,782億レアル 住宅建設や住宅融資への資金供給
●「水道、電気を皆に」 306億レアル 電力や上水道の供給地域拡大
●「交通」 1,045億レアル 高速鉄道、港湾、空港整備など
●「エネルギー」 4,655億レアル 発電所や送電網整備、石油・天然ガス田開発など
※上記以外に15年以後に持ち越す投資額が6,316億レアル

 外交でも同じ事がいえる。10年6月、国連安全保障理事会は公式会合を開き、米国などが提出した対イラン追加制裁決議案を賛成多数で採択した。反対したのは、非常任理事国のブラジルとトルコ。2カ国は、イランが保有する濃縮度の低いウランをトルコに運び出し、核燃料と交換することで合意したことを理由に反対。「なぜ、イランを擁護するのか」とブラジル国内の政治家や識者が首をかしげた。
 世界有数のウラン埋蔵量を誇り、核エネルギーの平和利用にブラジルも一家言あると中東情勢に首を突っ込んだ事情はわかる。だが、ジルマは、イランの非人道的な刑罰についての国連の決議に際し、ブラジルが棄権に回ったことを批判。人権と外交を分けて考える毅然とした新たな外交姿勢に、欧米諸国からの期待は高まる。
 対イランだけではない。ベネズエラ、ボリビア、エクアドルなど左派政権がひしめくなかで、その橋渡し役になれれば、国際社会のメジャープレーヤーとして発言力をさらに強めることができるだろう。
 ただ、ちょっと気がかりなのは、新大統領の健康問題だ。こんな指摘をしたブラジル人がいたという。今回の大統領選の第一回投票から決選投票への4週間の期間、対抗馬だったセラ前サンパウロ州知事が全国遊説の疲れからか、顔がこけたのに比べ、ジルマは反対に顔が太ったそうだ。ジルマは09年に悪性リンパ腫を克服したとされるが、実はこれ「薬の副作用で顔がむくんだのでは」と見る。相当、薬で症状を抑えているのではないかというわけだ。
 悪性リンパ腫名は「血液のがん」とも呼ばれ、完治は難しいと聞く。世界でも有数の多忙を極めるブラジル大統領という職だが、健康に配慮しつつ、PACという「アクセル」と財政支出抑制という「ブレーキ」を適度に踏み替えながら、ブラジルのさらなる飛躍と「脱ルラ」を実現してもらいたいと願うばかりだ。