会報『ブラジル特報』 2011年5月号掲載

                        パウロ・ヨコタ(経済コンサルタントIDEIAS社パートナー)


今年の初夢で土光敏夫氏に再会した。1988年に91歳の長寿を全うされた折りには、日本・ブラジル関係の黄金時代において多くの教えを受けた者として会葬させていただいた。祭壇には、勲一等旭日桐花大綬章やブラジルの南十字星国家勲章をはじめとして、27か国から贈られた最高勲章が燦然と輝いていたことを、今でもはっきりと記憶している。夢枕に立った土光氏は往年と変わらず、両国の多くの企業家に囲まれて、日本とブラジル経済交流について熱い議論を闘わされていた。衆目が集まる中で、いよいよ演説を始められようとされるところで目が覚めた。

土光敏夫氏とイシブラス
〔『Ishibras -1959/1994』園田 義朗編著刊 2009年5月
(原資料は、IHI広報室作成)よりご了解を頂き転写〕



 戦前に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業後、東京石川島造船所に入社され、1950年に社長となられた土光氏は、1959年にはブラジルへの同社の進出を果たされ、リオデジャネイロにイシブラス造船所を設立された。同社は、最盛期にはブラジル最大のドライドックを有し、一年に100万トンの船舶を建造する能力を誇った。国営鉱山会社ヴァレ・ド・リオドセ社 (現VALE社) 発注の鉄鉱石運搬船(32万トン)の建造はブラジル造船史上、いまだに破られていない記録である。
 土光氏はその後、経営難に直面していた東芝の社長に就任(1965年)され、その再建に成功されて、1972年には会長となられた。さらに1974年には経済団体連合会(現日本経団連)会長に就任し、6年にわたって「財界総理」として第一次石油ショック後の日本経済の安定化、自由化と国際化をはかり、多くの財界人のミッションを自ら率いて海外へ赴き、日本企業の進出を後押しされた。
 私は1960年代後半から1980年台半ばまで、ブラジル中銀理事をはじめ政府内の公職についていたことから、土光氏が来訪されるたびに、国内各地を案内する機会に恵まれ、この偉大な企業人の謦咳に接することができた。1970年代半ばには、田中角栄、エルネスト・ガイゼル両国首脳の相互訪問が行われ、それらをはさんで多くの政府・民間ミッションが両国間を往復したことが、今でも鮮明に記憶に残っている。
 土光氏は、率先して人の数倍も働き、宴会を避け、質素な家に住み、その生活を享受され、可能な限りハイヤーを断って電車に乗り、その少なからざる収入の大半を私立学校に寄付するという行為によって、1981年には鈴木善幸内閣の下での第二次臨時行政調査会会長に任命された。その期待通り、2年間にわたって心血を注がれ、行財政改革答申を提出した後に、最後の公職である臨時行政改革推進審議会会長を務められた。

 私は、今日の日本ブラジル関係において、土光氏のような企業リーダーの不在を残念に思っている。彼が心血をそそいだイシブラス社も今はなく、あの巨大なドライドックも非日系企業の手にわたってしまった。現在は、プレサルと呼ばれるサンパウロ州沿岸における深海海底油田用のリグ等の重機械を生産しているが、時代の変化を見誤った売却をしていなければ、イシブラスが受注し、世界的な造船ブームで、それまでの累積赤字等を一掃して、黒字になっていただろう。
 土光氏は、ウジミナス製鉄所の進出にも関わられた。同社は、今日では、パートナーである日本ウジミナスの大部分の株式を新日本製鉄が取得して、ブラジル側と協力して運営しているが、最近発表されたところによると、新たな設備投資を見送り、現存する設備の最新化に専念することになった。これは、VALEが非日系企業と提携して新たな製鉄所の建設に踏み切ったからだといわれている。

 ブラジルにおけるリオデジャネイロ〜サンパウロ〜カンピーナス間高速鉄道新幹線の建設について、日本勢は入札不参加を発表したが、ブラジル政府が期日延期を決定したため、まだ再検討の余地はありそうである。
 最近の日本政府および民間企業のブラジルへの対応は、過去30年間に比べると、かなり変化してきている。しかしながら日本の技術、資本を駆使した大規模プロジェクトの遂行については、日本側の確固たる意志がいまだ欠如しているように見受けられる。日本勢に対してブラジル側がかなり好意的であるにもかかわらず、この状況が一向に改善されないことは、まことにもどかしい限りだ。
 現在の日本は未曽有の不況から脱出できず、雇用状況も史上最悪の記録を更新し続けている。日本経済の活性化にブラジルが協力できる余地は大いにあると考えられる。かつて、ブラジルの鉄鉱石を日本に輸出するに当たって、大型タンカーを活用し運搬することで物理的距離を縮め、経済的に国際競争できる価格で日本の製鉄所まで運ぶことが可能となった事例や、大規模な二国間プロジェクトが数多く実行されたことが思い出される。

 21世紀において、これらに匹敵する事業が行われることは、単なる夢ではない。このような時に、土光敏夫氏のような強力な指導者がいてくれたら、と思うのは私一人ではあるまい。土光氏は、現代の日本では失われてしまった、明治の精神を具現する人物であった。彼が経団連会長のころ、日本の積極的な協力の下で実行に移されたセラード農業開発のおかげで、ブラジルは世界第二位の大豆生産国となった。ブラジル政府は、セラードに植えた大豆の種子を「DOKO」と命名して、良きブラジルの理解者へのオマージュとした。
 その当時と異なり、現代は不確実の時代だといわれているが、ウジミナス製鉄所は、戦後日本の経済力には未知数が多く、ブラジルの将来にも疑問がもたれていた時代において、日本の官民の英断によって実施が決定された。また、世界有数のカラジャス鉄鉱山開発計画も土光氏のような人々の決断力がなければ、現在の姿にはならなかったものと思われる。

 私の初夢は、現代日本における、土光氏が有していた強力な企業家精神の再来を希求するものである。過去30年間において、日本は中国やインド等のアジア諸国や欧米諸国との関係を促進してきたが、ブラジルは1世紀にわたって日本移民のみならず日本企業も受け入れ、一切のしがらみを有していない国である。ブラジルを信頼できるパートナーとして協力を密にすることによって、最近の経済の停滞状況を打破できるものと信じてやまない。日系二世として、初夢に託し、日本への期待を述べた次第である。

(訳:二宮正人 サンパウロ大学教授・堀坂浩太郎上智大学名誉教授・協会理事。本稿執筆にあたっては、元石川島播磨造船(IHI)富田健一、園田義朗両氏に事実確認をお願いした)