会報『ブラジル特報』 2012年5月号掲載
【社会・文化】

                                     古杉 征己 (サンパウロ人文科学研究所 理事)



 ブラジル日系社会の文化的発展に尽くした、著述家アンドウ・ゼンパチ(1900~83年、本名安藤潔、広島市出身)の生涯に焦点を当てた企画展が今年、日本で実施されている。広島を皮切りに、神戸、横浜で行われる予定(2012年4月8日現在、広島・神戸での展示は終了)。アンドウの歩みを追うことで、移民とは何か、日本人とは何かを考えると同時に、内向きな現代日本人に何らかの刺激を与えることができる機会になれば幸いと思う。企画展がアンドウの故郷広島からスタートしたというのは、特に感慨深かった。


 なおアンドウ・ゼンパチ展は同氏の生誕110周年を記念して、2010年末から11年初めにかけ、ブラジル日本文化福祉協会・ブラジル日本移民史料館主催により、サンパウロでも実施された。現在日本で紹介されているパネルは、サンパウロの企画展で作成したデータをもとに制作されている。

人となり
 「(30年前に移住して以来)文筆を職業として生きてきた唯一の日本人である」。評論家大宅壮一(1900~70年)は、著書『世界の裏街道を行く』(1956年)の中で、アンドウをそう称えた。アンドウが清貧に甘んじながらも、文筆によって生計をたてているということを、大宅は大いに評価したのだ。
 ペンネームの「ゼンパチ」は、金に縁のない男だといって、皮肉交じりに「金」という漢字を分解したことに由来する。
 アンドウは1900年、広島市下流川町生まれ。陸軍の軍人の子で、幼いころから厳しい教育を受けた。旧制中学の恩師江藤栄吉の影響で中江兆民などを耽読、啓蒙的な思想を抱くようになり、マルクス主義にも傾倒していった。

 広島は海外に多くの移民を送り出した地域だったことから、海外雄飛を志向。旧東京外国語学校(現東京外国語大学)でポルトガル語を学んだ後、1924年にブラジルに渡った。移民船に乗り込むにあたって、24歳のアンドウはあふれるばかりの情熱をみなぎらせた。「日本移民に役立つ人間になれー」。江藤の教えを、心の中で繰り返し聞いた。
 ブラジルに渡った後、伯剌西爾時報社の記者をスタートに、日本語教師、日伯新聞社編集長、雑誌『家庭と健康』の編集発行人など様々な職業につき、1930年代半ばには練炭工場の経営に乗り出したこともある。いつの時代も、文筆を飯の種にしていた。
 日本語やポルトガル語の文法解説書、『日本移民の社会史的研究』、ブラジル人作家の翻訳本など多くの著作を残し、日本では1983年に岩波書店から出版された『ブラジル史』の著者として知られている。
 私的な生活もユニークだった。アンドウは1928年から33年までの5年間を日本で暮らしている。実は、この日本滞在中に遠山静子という女性と恋に落ち、結婚の約束までした。だが、継母の反対で破談。失意のうちに、別の女性と結婚してブラジルに戻った。

 アンドウはそれから26年後の1959年、ブラジルでの生活に区切りをつけ、執筆活動の場を日本に移した。このとき初婚の女性を病気で失って再婚しており、ブラジルに妻子を残しての帰国だった。日本で、未亡人になっていた静子と運命的に再会し、かつて果たせなかった思いを遂げる。アンドウの行為はもちろん評価の分かれるところだが、静子とのエピソードは、彼をロマンチストといわせる所以になった。

アンドウの文化運動
 ブラジルの日系社会に生きるものとして、忘れてならないのは、アンドウが戦前、戦後を通じ、仲間とともに様々な文化運動を展開したことだ。以下簡単に、アンドウがイニシアチブをとった3つの文化運動を紹介したい。
 まず、1930年代日本・ブラジル両国でナショナリズムが台頭し、日本移民がその狭間で苦悩し始めると、アンドウは反戦主義の立場から、遠藤書店の協力を得て、半田知雄(画家)と雑誌『文化』を主宰、同化、子弟教育など移民のあり方を問うた。アンドウ自身は同化論者で、日本文化を持ったままブラジル社会に溶け込んでいくことにより、移住先国の文化的発展に貢献することが可能だとの持論を持っており、かなりコスモポリタンな生き方を志向していた。次に、日系社会は戦後「勝組」「負組」に分かれて混乱を極め、テロ事件まで発生した。アンドウは日本の敗戦を機にそれまでの世界観を見直し、新しい行動理念を構築していこうと、仲間とともに私的勉強サークル「土曜会」を組織。文化、歴史、社会など様々な分野について議論し、機関誌『時代』に論文・論説を掲載した。
 主要なメンバーには半田、鈴木悌一(弁護士、後にUSPの日本文化研究所を創立)、河合武夫(コチア組合技師)、斉藤広志(サンパウロ大学教授、当時は大学院生)、木村義臣(新聞記者)、増田健二郎(新聞記者)、江見清鷹(新聞記者)がおり、山本喜誉司(東山農場総支配人、後に文協初代会長)や中尾熊喜(企業家)らが支援者になった。
 「土曜会」は組織改編を経て、現在サンパウロ人文科学研究所(人文研)として活動を続けている。ブラジルの日系社会について組織的な研究活動を行ったのは、この「土曜会」が嚆矢だといって間違いない。
 さらに、アンドウは戦後の子弟教育について、日系コロニア人という新たな理念を打ち出し、ブラジルの2世には日本とは異なった日本語の教授法が必要だと説いて回った。アンドウの考えは、旧日伯文化普及会の日本語教科書編纂委員会に大きな影響を与え、後に日系社会独自の日本語教科書『にっぽんご』(初等用)と『日本語』(中等用)が出版されるに至った。残念ながら、このようなアンドウの文化運動は一部研究者や人文研関係者などを除き、一般にはあまり知られていない。アンドウはいわば、知る人ぞ知る人物なのだ。


写真:アンドウ・ゼンパチ展チラシ(神戸)

アンドウ・ゼンパチ展



 文化センターや病院を建設するという社会貢献は、個人の活動成果が目に見える形で存在する。したがって、いろいろな評価を受けやすいし、歴史に名も残る。一方文筆によって、人々の精神的営為に働きかけていくという行為は、成果が目に見えないものだけに、業績を評価することが極めて困難だ。時代を経るごとに、名も忘れられがちである。アンドウの場合、「アンドウ=ブラジル史」というイメージが強く、これまで日系社会との関わりに日が当たらなかったのかもしれない。

 それだけにブラジル日本文化福祉協会・ブラジル日本移民史料館が、生誕110周年記念の2010年にアンドウを取り上げ、移民社会に対する貢献や功績を紹介した意義は大きかった。肉親をはじめ、友人・知人の多くは既に他界しており、展示のために収集された証言や写真は、今後の研究に大いに役立つはずだ。
 また、ブラジル日本文化福祉協会・ブラジル日本移民史料館が準備段階から、日本での展示の可能性を模索したことも斬新的な試みだった。まずアンドウの郷里広島市にある、広島日伯協会が企画展に関心を示し、広島県庁や地元の中国新聞に協力を呼びかけ、実現にこぎつけた。故郷での企画展開催は、アンドウへの顕彰として最高のものだったにちがいない。

 今のところ、広島でも神戸でも展示会場が来場者でごった返すというわけにはいかなかった。だが来場者数だけで、企画展を評価するのは早とちりというものだろう。日系社会で移民世代が高齢化し、歴史保存が困難になっていく中、一つの歴史を検証し、それを残すことができたというのは、極めて貴重な仕事だったといえるからだ。