会報『ブラジル特報』 2012年7月号掲載
社会・文化

                                    田所 清克(京都外国語大学教授)


 組み手を囲む輪(ホーダ)のはやす歌と、アタバキ[踊りのリズムをとる太鼓]やベリンバウ[ひょうたんのついた弓のような一弦琴]などに合わせて演じられる、格闘技と踊りを一体化させたようなカポエイラ(capoeira)。このカポエイラの語源については定説がなく、諸説紛々たる状況である。
 カポエイラの発祥地をめぐっても従来、ペルナンブーコ州とアラゴーアス州の分水嶺をなすバリーガ山地のパルマーレスに存在した、最大の黒人奴隷逃亡集落(キロンボ)というのが大方の見方である。が、これも確たる証拠があるわけではない。が、しかし、カポエイラの語源や出自がどうであれ、父祖伝来のアフリカのバントゥー系の舞踊が、ブラジル社会の中で他の要素と融合して、あの見事なまでの多面性を持つ身体芸術が生み出されたことは、寸毫の疑いもない。
 


格闘技と踊りが一体化したカポエイラ




白人から嫌われた格闘技
 いわずもがな、ポルトガル人およびインディオと並んでアフリカ黒人は、この国のもう一方の重要な文化の担い手として国家形成に向けて大きな役割を果たした。にもかかわらず彼らは、おぞましい非人道的な奴隷制の下に、精神的にも肉体的にも塗炭の苦しみを味わうこととなった。しかも、過去の歴史が物語るように、いわば彼らが民族的なアイデンティティーの拠り所にしていた、大西洋の対岸からもたらしたアフロ系の言語や文化、宗教すらもことごとく白人支配層からは忌み嫌われ、否定・差別の対象となったのである。サッカー競技へのアフロ系の人たちの参加が過去において拒絶されたと同様に、カポエイラ実践者もまた白人層を中心とするブラジル社会では、そう易々とは受け入れられなかった。というよりはむしろ、カポエイラそのものが、ごろつき黒人集団の手になる危なっかしい、支配層を脅かす代物と映り、取締りの対象となっていたのである。
 したがって、カポエイラが社会的に容認・合法化(1937年) されるのには、ヴァルガス大統領の時代まで待たねばならなかった。そして、スポーツ文化の一つとして広く国民の間に認知され、実践されるのには、さらに歳月を要した。その意味において、黒人奴隷の肉体とその内に宿るアフリカ的な魂から生まれたカポエイラも、悲哀の歴史を味わったその生みの親ともいえる彼らと同然の憂き目に会ったといえよう。

アフリカ伝来の身体芸術
 ところで、定型的なイメージとして定着しブラジルを表徴するものに、音楽とサッカーが挙げられる。が、強いていえば後者の場合は、そもそもイギリスから導入された白人のスポーツ文化であって、この大地に深く根差したものとはいい難い。つまり、土着的で混血性に特徴のあるこの国の、ヴァナキュラー(特定の場所や集団と結びついた伝統的な固有のもの)な文化ではない。翻って、カポエイラはまさしく、アフリカ伝来のバントゥー系社会にみられる種々の儀礼的な舞踊が、ブラジルの奴隷制という特殊な環境のなかで形をかえて創りあげられたものに他ならない。
 そのカポエイラが、立った姿勢で技を素早く繰り出すレジオナル(Regional)スタイルであれ、駆け引きに富み舞踊性に特徴のある、低い姿勢でどちらかと言えばゆっくりした動作のアンゴラ(Angola)スタイルであれ、そのいずれもが身体芸術表現としての独自性を有し、格闘、祭祀、儀礼、遊び、競技、美容、心理的な癒し、といった多様な目的性と意味と機能を内包している。のみならず、非言語的なコミュニケーションの身体技法と音楽性を具えた総合的な性格のスポーツとも解されただけに、カポエイラ自体にある種の哲学なり美学すら感じられる。それかあらぬか、その出自が純然たるアフリカ(アンゴラ)的なものであるか、奴隷を送出した対岸に位置するブラジルに生まれた、アフロ・ブラジル的なものであるかを問わず、今やカポエイラ(capoeira)はブラジル性をもっとも表徴した多義的なスポーツ文化となっている。
 つまり、“ブラジルサッカーの父”と呼ばれるチャールズ・ミラーによって英国から持ち込まれたスポーツとは異なり、カポエイラの場合は、ブラジルの文化構造の基底をなすアフリカ的なものに深く根ざしている。加えて、白人社会の英国で生まれたサッカーに対して後者のカポエイラは、アフリカに淵源を持ちながらも、ブラジルの大地で編み出された点で、ブラジル性が色濃い。

 


アフリカ的なものに根ざしたスポーツ



サッカーから排除されたアフロ系

 周知のように、ブラジルでは当初、サッカーが白人エリート階級に属する人たちに限られたスポーツであったことから、黒人やムラト(黒人と白人との混血児)のごときアフロ・ブラジル系の人たちにとっては、公の場でプレーすること自体憚れた。彼らがピッチに立ち、チームの主力選手として活躍できるようになったのは、1920年代以降になってからのことだ。ことほど左様に、アフロ系出自の人たちは人種差別と偏見の対象であり続け、サッカーからも排除されていたのである。サッカーがあらゆる社会層に広く受け入れられる歴史過程において、このスポーツに対する見解は国内の知識人や文人墨客の間で二分していた。
 コエーリョ・ネット、ネルソン・ロドリゲス、ジョゼー・リンス・ド・レーゴに代表する、サッカーを熱烈に歓迎・受容する作家や詩人が片方に、また他方において、リマ・バレットや『干からびた生活』(Vidas Secas)の著者グラシリアーノ・ラーモスのごとき、反サッカーの立場をとる者がいた。前者のサッカーを肯定的に捉える立場に与する人物の中で、特筆すべきは『砂糖園の子』(Menino de Engenho)や『消えた火』(Fogoゼー・リンス・ド・レーゴかもしれない。彼はサッカーをブラジル性の表徴として捉え、スポーツ紙に「スポーツと人生」という題目の下、通算1571回にも及ぶクロニカを執筆しながらサッカーを絶賛した。翻って、反対派のリマ・バレットとグラシリアーノ・ラーモス、わけても前者は、自らの出自がアフロ系出自であったことから、黒人やムラトのプレーを許さないサッカーに対して深い嫌悪感を示し、と同時に、それが白人エリート階級のための人種主義に立脚したものとみなして激越に指弾した。また、レーゴと並んで北東部に基盤をおく代表的な地方主義者であったグラシリアーノ・ラーモスの場合も、ナショナリスティックな視座から解釈しつつ、サッカーにはブラジルの文化的特徴が微塵も無く、国民性とは調和し難い、と観てサッカーの受容に異を唱えたのである。

アフロ系文化はブラジル文化の基底をなす



動作はサッカーにも影響
 ともあれ、カポエイラは音楽と並んで、単にアフロ系住民の民族的アイデンティティーを表出したもの以上に、ナショナル・アイデンティティーの拠り所となっている感を強くする。この点において、多義性(格闘技、音楽性、舞踊、身体表現としての美学など)を持つこのアフロ・ブラジル起源のカポエイラは今や、国民文化の域にまで昇華し、いわばブラジルの表徴的存在になっている。
 このこともあってか、グローバル化の兆しをみせて世界に拡がりつつある。と同時に、日本においてもブラジル的な異国趣味に魅せられた人たちの間で、着実にカポエイラ愛好家が増えている。
 『ブラジルのサッカーにおける黒人』(O negro nofutebol brasileiro)の著者マリオ・フィーリョの言説に拠れば、ブラジル・スタイルのサッカーの中にさえ、カポエイラの動き(影響)があると言う。カポエイラが何よりもブラジル的なスポーツであることを、皆さん、納得頂けたでしょうか。