会報『ブラジル特報』 2012年9月号掲載

                      木下 義貴 (在ブラジル大使館一等書記官)


 国連持続可能な開発会議(リオ+20)
 6月20日~22日まで、リオデジャネイロにおいて、国連持続可能な開発会議(リオ+20)が開催された。約100名の首脳および多数の閣僚が参加したほか、政府関係者、議員、国際機関、企業、NGOなど約3万人が参加した。
 我が国については、ホストであるルセーフ大統領から野田総理の出席が強く期待されていたが、国内事情により右が叶わず、政府代表として玄葉外務大臣が出席し、各種会議・イベントには長浜内閣官房副長官も出席した。玄葉大臣は、政府代表演説の中で、 (1)環境未来都市の世界への普及、 (2)世界のグリーン経済移行への貢献、 (3)災害に強い強靱な社会づくりを3本柱とした「緑の未来」イニシアティブを発表した。また、本会議中、玄葉大臣はパトリオッタ・ブラジル外相と外相会談を実施した。

玄葉外務大臣のスピーチ


 日程については、当初、同会議は6月初めに開催されることが発表されていたが、同日程ではエリザベス英女王の載冠60周年記念行事と重なるほか、G20 ロスカボス・サミット(メキシコ)の日程と2週間ほど離れており、各国首脳が二度中南米を訪れるのは困難であるとの意見が相次いだことから、ホスト国ブラジルは、本会議により多くの首脳が出席できるよう、当初予定していた開催日程を理由に変更することとなった。
 開催地であるリオデジャネイロ市は、世界各国からの参加者を、ブラジルのホスピタリティをもって受け入れるべく、力を入れて準備にあたっていた。パエス同市市長は、ハイレベル会合が開催された20日~22日を交通渋滞や混乱を避けるため教育機関、州政府、市当局の臨時の休日とし、宿舎不足につき批判がでた際にも、リオデジャネイロ市民に対し、家を開放するよう積極的にキャンペーンを行った。民間企業も会議期間中にはコルコバード・キリスト像を緑色にライトアップする等の演出を行い、20年ぶりの大型イベントに現地は盛り上がりをみせていた。
 他方で、実際にはブラジル国内での期待とは異なり、世界経済や国内情勢等の理由から多くの首脳のブラジル訪問が叶わず、例えばG8のうち首脳が参加したのはフランス、ロシアの2ヶ国だけにとどまり、ブラジル環境省の世論調査でも、78%のブラジル国民が「リオ+20」のことを知らないことが判明したという寂しいニュースもあった。

リオ+20の経緯とテーマ
 リオ+20は,文字どおり1992年にリオデジャネイロで行われた「国連環境開発会議(地球サミット)」から20年目に行われたものである。その背景には、2007年、ブラジル政府が第62回国連総会で、地球サミットのフォローアップ会合を行うことを提案し、2009年、ブラジルにおいて同フォローアップ会合が行われることが決定された経緯がある。筆者も、この時期外務省南米課でブラジルを担当しており、ブラジルが本件会議の誘致のために積極的に外交活動を行っていたことをよく覚えている。
 リオ+20は,文字どおり1992年にリオデジャネイロで行われた「国連環境開発会議(地球サミット)」から20年目に行われたものである。その背景には、2007年、ブラジル政府が第62回国連総会で、地球サミットのフォローアップ会合を行うことを提案し、2009年、ブラジルにおいて同フォローアップ会合が行われることが決定された経緯がある。筆者も、この時期外務省南米課でブラジルを担当しており、ブラジルが本件会議の誘致のために積極的に外交活動を行っていたことをよく覚えている。
 1992年の地球サミットでは、持続可能な開発のための地球規模でのパートナーシップの構築に向けた「リオ宣言」、右宣言の行動計画たる「アジェンダ21」、さらに「気候変動枠組条約」や「生物多様性条約」などが署名され、大きな成果があったことから、今次会議に対する期待も極めて大きいものがあった。リオ+20では、主に持続可能な開発および貧困撲滅の文脈におけるグリーン経済、および持続可能な開発のための制度的枠組みが議論され、22日に採択された成果文書 (The Future We Want「我々の求める未来」) では、 (1)グリーン経済は持続可能な開発を達成する上で重要なツールであり、それを追求する国による共通の取組として認識すること、 (2)持続可能な開発に関するハイレベル・フォーラムの創設等、 (3)都市・防災を始めとする26の分野別取組についての合意、  (4)持続可能な開発目標(SDGs)についての政府交渉のプロセスの立ち上げ、 (5)持続可能な開発ファイナンシング戦略に関する報告書を2014年までに作成することなどが合意された。

ブラジルの役割
 リオ+20は、あくまで国連主催の会議であり、ブラジルはホスト国にすぎなかったが、それでもなおブラジルの果たした役割は極めて大きかった。ブラジル国内では2011年6月7日付け大統領令をもって、関係省庁、州政府、関係機関、市民社会等を巻き込んだリオ+20国家組織委員会、リオ+20国家組織会議、リオ+20特別補助機関の3つの国内組織が設置され、大規模な国際会議のサブスタンスおよびロジスティックの準備が進められることになった (ただし、ロジスティックについては、ブラジルらしく、前述のリオ+20の日程の変更をはじめとして、宿舎不足・宿舎料金の高騰(通常料金の4~5倍)、直前まで会議の予定や場所の詳細が決まらない・頻繁に変更される等があり、我が国や自国の元首等を迎える準備段階にあった各国事務レベルはかなり冷や汗をかいた)。
 成果文書については、まずは国連が各国からのコメントを回収し、それを元にゼロ・ドラフトとよばれる所謂たたき台が作成された。ゼロ・ドラフトは、当初19ページであったが、各国からのコメント、3回の事務レベルの事前交渉および数度の非公式会合等の過程で、各国の意見が反映されていった結果、一時には最大206ページまで膨れあがっていた。各国担当者による本格的な交渉では、日本でも報じられているように、本分野におけるG77+中国の途上国グループとその他の先進国の対立が根深いものであることがあらためて感じられるようになった。
 例えば、20年前のリオ宣言に盛り込まれた 「(先進国と途上国の)共通だが差異ある責任」 という文言を巡る先進国と途上国の対立や、グリーン経済という概念につき、グリーン経済を望むならそれを途上国で達成するために必要な資金と技術移転を約束して欲しいとする途上国と、グリーン経済は途上国のためにもなると主張する先進国との対立などがあり、約半年にわたる交渉の過程でも、先進国側も途上国側も一歩も譲らなかった。このような膠着状況の中で、イニシアティブを取ったのがブラジルであった。本会合直前になり、ブラジルがこれまでの各国の議論および議論してきたドラフトを元に、先進国にも途上国にも受け入れ可能な落としどころが熟慮されたまったく別のペーパーを提示したのである。手法としては強引であったが、結局、そのブラジル・ペーパーが概ね受け入れられる形となり、成果文書として採択されるに至った (全283パラグラフ(約50ページ)、ハイレベル会合の前日の19日には実質合意)。国際場裏におけるブラジルの外交手腕を垣間見た瞬間である。

会議に参加した各国代表


パビリオン
 最後に、本会議場に近接するアスリートパークでは、ブラジルを含む各国のパビリオン、国連諸機関等のパビリオンが設置され、一般向けに独自の展示や数多くのセミナーが開催された。ブラジル・パビリオンは最大規模であり、大型モニターを駆使した展示がなされ、多くの集客があった。
 また、リオデジャネイロ州政府のパビリオンは、壁面緑化を使用した斬新なデザインで来客者の注目を集めたほか、The Future We Want をテーマに、環境だけでなく、ファベーラ(スラム街)の貧民層を対象とした社会政策にも焦点を当てていた。なお、パビリオンの壁の一部を、リオ+20後にファベーラに建設する公立図書館の建設資材の一部として再利用することが決定されている。なお、我が国も官民一体となって日本パビリオンを設置し、我が国の優れた環境・省エネ技術を広報するとともに、東北地方の復興と魅力をアピールした。約2万人を集客し、来場者の評価も極めて高く、大成功といえるイベントとなった。


(注:筆者個人の見解であって,外務省および在ブラジル大使館の見解を代表するものではありません。)