会報『ブラジル特報』 2014年5月号掲載
社会・文化

   
武田 千香(東京外国語大学教授・協会顧問)


 近年はパウロ・コエーリョに座を明け渡してしまったが、ひと昔前までジョルジ・アマード(19122001年)は、日本でもっとも読まれているブラジル人作家だった。邦訳作品は8冊にのぼる。
アマードは、その名のとおり民衆から大いに愛され (アマード) 、いまもその作品は読み継がれているばかりでなく、舞台化やドラマ化も行なわれている。つい最近も 『ガブリエラ』 がドラマ化されて、話題を呼んだ。だが、そうした人気とは裏腹に、批評家や文学研究者からは著しく不評な作家でもあった。大学院時代にブラジルへ行ったときに、どの作家を研究しているかと聞かれ、ジョルジ・アマードだと答えると、たちまちにして相手の学者の顔が曇り、首を横に振りながら、残念ながらアマードの文学はひじょうに批判が多いんだと呟かれたのを覚えている。批判されたのは、とりわけ言語の「乱れ」 や過剰な性描写で、当時は、実際の人気と研究者らの不評判のギャップに戸惑ったものだ。だが、いまになって考えれば、それはやはりアマードがもっぱら民衆に寄り添ってブラジルを描いたからなのだ。

秩序と脱・秩序
 『未亡人ドナ・フロールの理想的再婚生活』 (1976年)という映画を観たことがあるだろうか? これは、ブルーノ・バヘット監督によるジョルジェ・アマードの 『ドナ・フロールと二人の夫』 (1966年)の映画化である。主人公はバイーア州サルバドールに教室を開く料理の先生のドナ・フロール。賭け事と女性と酒ばかりに興じるどうしようもない遊び人のヴァジーニョと結婚しているが、カーニバルの最中の日曜日、その夫が急死する。生前はさんざん泣かされたが、いざ死なれてみると、ドナ・フロールの心のなかにはぽっかり穴があいてしまう。
次に再婚した相手は薬剤師のテオドーロ。その職業が象徴するようにヴァジーニョとは正反対。真面目で物静かで貞実な男性で、趣味はクラシック音楽。以前とは打って変わって、結婚生活はなにひとつ不自由のない、じつに平和なものだった。だが、ドナ・フロールは次第に物足りなさが募り、ヴァジーニョと交わした日々が恋しくてたまらなくなる。
結婚一周年記念の宴が終わった矢先のことだった。ヴァジーニョがひょっこり現われ、一糸まとわぬ姿で関係の再開をしきりにドナ・フロールに迫る。その姿は、彼女以外の人には見えないが、夫を裏切りたくないドナ・フロールは必死に振り払う。だが、けっきょくは受け容れることになり、本の表紙や映画のジャケットカバーに描かれている、二人の夫を両手にダブルベッドに横たわるドナ・フロールの刺激的な絵どおりの、3人の結婚生活がはじまるのだった。

ジョルジェ・アマードの 『ドナ・フロールと二人の夫』

 たしかに批評家や研究者らの批判もわからないではない。私がこの映画を最初に観たのは大学2年生のころで、ほとんど全裸で現われるヴァジーニョと(観客には後姿しか見えないように撮られているが)、強調されるドナ・フロールの官能性に、まだうら若かった私は、なにやらポルノ映画を見せられている気分になったし、生きている夫と死んだ夫の二人との共同生活を始めるという設定に関しても、単にドナ・フロールの願望か夢を描いただけの荒唐無稽な話のように思えたのを覚えている。
だが、いまになって考えると、それがブラジルなのだ。現実と超現実が混じり合う日常、規律と人間くささが共存する社会。一見、ドナ・フロールの欲望を描いたおちゃらけに見えるその作品も、実は現実の人や文化や社会をみごとに描き出す“まじめな”作品なのだ。たしかに映画だけを見れば、ドナ・フロールが肉欲に負けたと単純化できるかもしれない。だが、小説にはもっと深い世界が描きこまれている。
ドナ・フロールが駆られたのは単なる肉欲ではない。彼女は二つの愛に引き裂かれたのだ。彼女は 「どうして人間はだれも(……)二つの愛のあいだで引き裂かれないとならないのかしら? なぜ心は、このように相容れない正反対の二つの気持ちを一度に抱いてしまうのかしら?」
と思い悩む。一方、ヴァジーニョは、次のようにいって、三人で暮らすことを提案する。

 俺は君に愛を与えることしかできない。君が必要な残りはすべて奴だ。持家も夫婦間の貞節も、敬意、秩序、配慮、安全。それを君に与えるのは奴だ。なぜなら君の愛は、そうした高貴な(しかし七面倒くさい) ものからできていて、君は幸せになるためにはそれらすべてを必要としているからだ。だが、俺の愛だって、君は幸せになるために必要だ。この歪みだらけの過ちの不純の愛、君を苦しめるこの放縦で燃えるような愛だって。

つまりドナ・フロールが三人の共同生活によって手に入れたのは、規律正しいテオドーロに象徴された 「秩序」(住む家や敬意や貞節といった高貴なもの) と、遊び人ヴァジーニョの 「歪みだらけの過ちの不純な愛」、すなわち 「脱・秩序」 の愛の両方を兼ね備える境地だったのだ。
この 「秩序(ordem)」 と 「脱・秩序(desordem)」 という対概念は、ブラジルを理解するうえでたいへん重要で、他の文学作品やブラジルに関する研究書にもよく出てくる。ブラジルは、常にヨーロッパ(ポルトガル) から規範や制度を課せられてきたが、実際にはヨーロッパとは違う現実があったから、ヨーロッパ伝来の「秩序」を受け入れながらも、それからは逸脱する 「脱・秩序」の部分をも併存させながら人・文化・社会を形成させることとなった。

もうひとつの世界/人間の境地
それにしてもヴァジーニョに重ね合されている 「脱・秩序」 は、どのように考えたらいいのだろうか。ここでヒントになるのが、ブラジルの碩学、文化人類学者のホベルト・ダマッタの指摘である。ダマッタによれば、ブラジルの人々は、現実世界のほかに「もうひとつの世界」 という境地を持っているという。
「もうひとつの世界」 とは、まずは死者や神々や聖人やオリシャ (カンドンブレの神々) が暮らす、いわゆる 「あの世」である (だから死者ヴァジーニョに重ね合されているのだ)
と同時に、二元論的体系で構成される現実界のあらゆる対立が統合される境地でもある。ドナ・フロールは、テオドーロ以外の男性と関係を持つことは不倫だと考えて抵抗した。だが、そもそも不倫が悪であるなどという考え方は、しょせん秩序界のものだ。善だの悪だの言ってみたところで、たしかにそれは秩序界では意味を持つのかもしれないが、秩序界を脱した 「もうひとつの世界」 からみれば、出所はいずれも同じ人間である。そこから見れば、秩序界の諸制度にしても諸規範にしても、すべてが 「人間」という存在の外ででっちあげられた作り事とすらいえるのだ。
ダマッタによれば、ブラジルの社会は、現実の世界と 「もうひとつの世界」 が相互に補完し合うかたちで成り立ち、そのいずれかが欠けてもブラジル社会ではなくなるという。ブラジルの人々は、それらの領域のあいだを常日頃から絶えず移動し、そのたびに行動基準が、それぞれの領域に即したものに切り替わるらしい。ドナ・フロールがテオドーロ(秩序) とヴァジーニョ (脱・秩序) のいずれとも暮らすという設定は、ブラジルの人々の精神構造の表象と考えれば、荒唐無稽ではないのかもしれない。

罪なき世界
さて、人間という原点に立った 「もうひとつの世界」 を持つことは、現実社会の秩序を客観的に見る視点を獲得することでもある。すると「罪」 の感覚も、秩序界の発想のみで行動する人とは大きく異なってくる。なぜならば善と悪、常識と非常識、正と不正といった秩序界の対立が相対化されるからだ。この境地を持てば持つほど、人は厳格な規律に縛られることなく、人間の本質的自由を獲得する。
この姿を体現しているのが、アマードのもっとも有名な小説  『丁子と肉桂のガブリエラ』 (原作1960年、邦訳:尾河直哉訳、彩流社、1995年) のヒロイン、ガブリエラだろう。1920年代の 「カカオの大地」、ブラジル北東部のイリェウスを舞台に繰り広げられる大農場主らの戦いのドラマを背景に語られるのは、バールの店主ナシブ・サアドとガブリエラの恋の物語だ。ガブリエラは、身分証明書も出生証明書も持っていず、誕生日も父親の名前も知らないモレーナ。鳥かごの小鳥も逃がしてしまうほどに自由を愛し、靴を履くことも嫌う。ナシブはついに恋を実らせ、晴れてガブリエラを妻に迎えるが、彼女は「花によっては庭の枝にある間は香しく美しいが、花瓶に活けられると、たとえ銀の花瓶でも枯れてしまう」 ような女性だった。社交界でサアド夫人としてふるまうことはもちろん、結婚という制度に拘束されることも耐え難く、当然「貞節」 という感覚からも無縁だった。けっきょくナシブは彼女を結婚というから解き放ち、もとの自由な関係に戻し、「ただそこにある」 そのままのガブリエラを受け入れることになる。ここでいう「自由」 は、権利や義務や法律などとは異次元の、人間本来が持つそのままの 「自由」 を指す。
それは、地位や財力といった社会的な格差が捨象され、「みな同じ人間」 という人間的平等からの発想に立つ境地でもある。ドナ・フロールが、秩序以外に必要としたのも、そうした人間の境地だったのだ。よくいわれるブラジル人の心温かさや、人間的欲望に対する大らかさは、こうした 「人間の境地」 からくるのかもしれない
とはいえ、ブラジルのそうした人間くさい脱・秩序的な側面は、ヨーロッパ近代を理想とする人からみると、歓迎できない恥の部分と映ることもある。アマードの文学、とりわけ後期の作品群が批評家や研究者から嫌われた理由はそこに求められるだろう。だが、それはあくまでも秩序界の規範の視点に立つ人の見解だ。アマードは、秩序界とともに「もうひとつの世界」 を併せ持つブラジル、すなわちヨーロッパにして非ヨーロッパでもあるブラジルをみごとに描きこんだ。だからヨーロッパ近代を理想とするエリートたちには嫌われたのだ。