会報『ブラジル特報』 2007年
1月号掲載

                         岸和田 仁
(在レシーフェ)


レシーフェ市レシーフェ区ボン・ジェーズス通り。旧市街の目抜き通りで、17世紀にはユダヤ人通りとよばれていた。その真ん中にアメリカ大陸で最初のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)がある。開設は1636年、1654年に閉鎖されたが、2001年に復興、現在は博物館・文化センターとなっている。

この歴史的博物館の一階はパネル展示で17世紀レシーフェでのユダヤ人の歴史がわかるように工夫されている。ここは最近まで電器部品店だったが、1990年代後半から考古学的な発掘をした結果、17世紀当時の壁やユダヤ教儀式に必要な水槽の跡が確認されている。床をガラス張りにすることでその遺跡を直接みることが出来るようになっており、入館者はいささか荘厳な気持ちになってゆっくり歩を進めることになる。二階は、シナゴーグ。中央正面にトーラー(ユダヤ律法)の巻物を収めた聖櫃があって、それに向かって講壇が設けられている。礼拝がない時は入館者も出入り自由、写真もO.Kだ。また階段のところには、ユダヤの祭りについての解説が掲げられ、ハヌカ(灯明祭)、プリム(仮装祭)、ペサハ(過越しの祭)などについて説明が付されている。丁寧にみても一時間余りで全て見られる、レベルの高い、コンパクトな博物館である。

何故多くのポルトガル系ユダヤ人が17世紀のレシーフェに集結したのか。それは異端審判という反ユダヤ宗教テロリズムから逃れる選択肢の一つが宗教自由国オランダへの移住であり、そのオランダがノルデスチを占領(1630-1654)したからだ。当時のノルデスチはサトウキビ経済で潤っており、全人口の13%程度(白人一般市民の50%)がユダヤ人と改宗ユダヤ系人であった。サトウキビの生産現場(製糖工場)でもヨーロッパへの輸出業でもユダヤ系が牛耳っており、17世紀中盤のレシーフェを中心とするノルデスチに、南北アメリカ大陸で最大のユダヤ人社会が存在していたのだ。

だが1654年にオランダは敗退、再び植民地の支配者となったポルトガルは異端審判を復活、ユダヤ人としては、ユダヤ教を完全に棄教するか、国外へ脱出するか、どちらかを選ぶしかなかった。1654年4月、150家族ほどがオランダを目指して船出したが、うち一隻は途中紆余曲折があったが、同年9月北米オランダ領ニューアムステルダム(今日のニューヨーク)に到着する。この23名が北米におけるユダヤ人パイオニアとなる。また、オランダ領カリブにたどり着いた人たちは、ノルデスチで覚えた製糖ノウハウを現地に搭Z術移転狽オていく。

とはいえ、ユダヤ系の人たち全員が国外脱出したわけではなく、ノルデスチに居残った数のほうが多かったのである。最近の歴史研究によれば、18世紀のノルデスチで、奴隷を除いた自由人人口の最低10%がマラーノ(改宗ユダヤ系)であったという。彼らの多くは17世紀後半から18世紀にかけて隣州(当時は県)のパライーバやリオグランデ・ド・ノルチの内陸部へ進出したが、この西部開拓のノルデスチ版ともいえるような人口移動により定着した人たちは代替わりするうちにユダヤ的アイデンティティーを喪失するが、”かくれキリシタン” ならぬ ”かくれマラーノ”が多数存在するようになるのだ。

現地を調査したノヴィンスキー・サンパウロ大学教授によって、住民の多くにユダヤ的習慣(豚肉へのタブー、清浄食コーシャー、等々)が受け継がれていることが確認されており、こうした元マラーノ系の人たちをユダヤ人としてカウントしたら、たちまち数百万人となるだろう。このユダヤ性の底流が、よかれ悪しかれ、ノルデスチの歴史と文化を形成してきたが、正史では全く語られていない。となれば、ユダヤ性を織り込んだブラジル史が新たに叙述されるべきだと思うが、さて。