会報『ブラジル特報』 2007年
1月号掲載

                    船津 亮平
(月刊『ラティーナ』編集部)


ここ数年のブラジル音楽の新しい流れとしてのトピックスはいろいろとあげられるのだが、中でも注目したいのがリオデジャネイロのボヘミアンの巣窟として認識されているラパ地区の隆盛である。ここ数年でラパは大いに変わりつつある。そしてサンバを取り巻く現況も次第に変化を遂げているのだ。
 ラパ。本来の意味は「鉱道」で、リオデジャネイロにもサンパウロにもある地名だから、おそらくブラジル国内でもポピュラーな地名なのだろう。そしてリオデジャネイロのラパといえば水道橋(アルコ・ダ・ラパ)を思い出される方も多いだろうし、滞在時、あるいは赴任されていた頃に唐?そこは夜危ない地区だから近づかない方がいいよ狽ネどといわれていた方も多いだろう。十数年前まではラパの不夜城は、とうてい外国人観光客を受け入れてくれる場所ではなかったし、前述の水道橋の周りは夜間は真っ暗で、サンタテレーザの丘へと続く坂道には近寄りがたい雰囲気が漂っていたはず。

そんなラパが、ここ数年俄に状況を変えてきている。犯罪抑制策もあるのだろうが、水道橋も夜間にはライトアップが施され、多くの店が音楽を流し、地元ブラジル人に限らず外国人観光客が夜を散策しごった返すさまは、イパネマやコパカバーナに匹敵する趣だ。カーニヴァルの時期には水道橋前広場の特設ステージで連日サンバ・ショーが行われるほど。
 実際これには、行政の手も入っている。脱線してしまうが、先日12月2日は、「ヂア・ナシオナル・ド・サンバ」いわゆる「サンバの日」であった。作曲家アリ・バホーゾが初めてサルヴァドールを訪れたのが12月2日。この日を歴史研究家でサルヴァドール市会議員だったルイス・メネゼス・モンテイロ・ダ・コスタが「サンバの日」として定めた、というのがブラジルの「サンバの日」の発祥とされている。今年のサンバの日の前々日、11月30日にはリオ市会議員エリオマール・コエーリョ(社会自由党)が市議会の本会議場において、ラパの復興10周年にオマージュを捧げるサンバを行った。

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テレーザ・クリスチーナ

モナルコやネルソン・サルジェント、モアシール・ルスやパウラゥン・セッチ・コルダスといったサンバの手練れが出演したそうで、リオをあげてこの10年間ラパの復興に力を入れてきたことのひとつの証明であろう。そこには核となるライヴハウスの存在もある。1980~90年代にかけてポップスやロックを中心に音楽発信基地となっていた「シルコ・ヴォアドール」(96年に閉鎖し、8年後の2004年にリニューアル・オープン)、2000年に開店し、現在ではサンバの殿堂とまで讃えられる「カリオカ・ダ・ジェマ」、そして「フンヂサゥン・プログレッソ」らがそれだ。「シルコ・ヴォアドール」や「フンヂサゥン・プログレッソ」においては、サンバに限らず様々なイベントが企画されており、そこにはサンタテレーザの丘の住民以外にも、徐々にゾナ・スルと呼ばれるリオ市南部の若者も段々と足を運ぶようになってきていた。96年頃、そこにリオ州・リオ市の政府当局が目をつけ、まずは、三つの広場に街灯を明々と点したのを皮切りに、朽ちかけていた歴史的建造物の補修にも順次資金を投入し、「ラパ文化地区再興プロジェクト」をスタートさせた。そして今年が10年目、というわけである。

1920年代から30年代にかけては、いわゆるアウトロー、つまりマランドロの溜まり場となっていたラパはカフェやキャバレーが賑わいを見せ、欧米的にいえばまさに塔Zックス・ドラッグ&ロックンロール狽nで行く歓楽街であったはず。そんなラパは、現在では外国人観光客ももはや安全に音楽を楽しめるプレイスポットとしての位置を完全に確立したといってよいだろう。

もちろんここまでラパが再生したのは優れたアーティストの存在なくしては考えられないように、ライヴハウスなどハードだけではなくソフトの面での充実もあげられる。現在の日本でも数多くのラパのアーティストが紹介されている。テレーザ・クリスチーナ&グルーポ・セメンチ、アナ・コスタ、マリアーナ・バルタールなどは日本でも紹介されており、日本盤未発売の輸入盤にも広げれば、ラパで活躍する様々なアーティストのCDが手に入る。モノブロコというグループのライヴ盤DVD(前述のシルコ・ヴォアドールにて収録)を見ると、観客層の人種構成もステージ上も!圧倒的に白人系が多いことが分かる。ゾナ・スル地区の若者、あるいは外国人観光客にラパがかくも身近になっていることが一見してわかるのである。

中でも「ラパの女王」とまで呼ばれるテレーザ・クリスチーナの存在は特筆すべきで、2003年には来日も果たし、一週間の東京公演を成功させている。アルバムを3枚発表しており、ニテロイの市立劇場でのライヴを収めた最新作『オ・ムンド・エ・メウ・ルガール』は国内盤で発売されている(NRTより)。来日時のインタビューでは彼女もこう語っている。
「私が歌い始めたのは《バール・セメンチ》です。今はあいにく閉店してしまいましたが―。バール・セメンチが全ての始まりだった。セメンチ(種)の意味はわかりますよね? あの店は、ラパにとってまさに塔Zメンチ狽ナした。最初は確かに人は少なかったけど徐々に店の中にも人が増えてきて、その通りにも人が溢れて、他のバールも道に椅子を出すようになって―。その勢いは他の通りにも飛び火しました。そのうちにカリオカ・ダ・ジェマやセントロ・クルトゥラル・ブラジルも出来ました。ラパにサンバが戻ってきたのです」。
彼女がセメンチで歌い始めたのは97年のことである。

また、こうもいっている。
「今、ラパには私みたいなサンバを伝える歌手やグループがたくさん出てきています。サンバを聴きたい人、サンバを演奏したい人が若い人を中心にぐんぐん増えてきています。ロックンロールや英米の音楽を少し脇に置いておきましょう、というところでしょうか。ラパの現況は痘ャ行(モーダ)狽ニいってもいいかもしれません。でも、流行というのは一時的なものですが、みんながみんな一時的にサンバをとらえているのではなくて、中にはより深く掘り詰めて知ろう、あのレアなレコードを探してみようという人もたくさんいるのも事実なんですよ」。
こんな中から出てきたのが、前述のアナ・コスタやマリアーナ・バルタール、ということになるだろう。テレーザにしてもアナにしてもマリアーナにしてもおわかりの通り、女性歌手。ベッチ・カルヴァーリョやアルシオーネといった大御所に続く女性歌手はなかなか登場してこなかった感があるが(もちろんそれはサンバが持つ圧倒的なマッチョ主義が関係しているのかもしれないが)、久々にサンバ女性スターが登場してきている。

ラパのサンバの特徴としては、奇をてらわず正当派のアレンジで、サンバの”うたごごろ”を繊細に伝えるところ。「ラパ
Lapa」という文字を目にしたら、こんなことを思い出しつつ、ぜひCDを手にとっていただきたいものである。
  

(参考文献:月刊『ラティーナ』2003年8月号「テレーザ・クリスチーナ 21世紀の盗Vサンバ世代狽ロ徴する歌姫」船津
亮平/2006年3月号「テレーザ・クリスチーナとラパの再興 新進歌手の成功を後押ししたサンバの重要エリアにひそむ神秘」佐藤
由美)