会報『ブラジル特報』 2007年
7月号掲載

                              岸和田 仁(在レシーフェ)


高野泰久さん。サンパウロの高野書店店主。ブラジルで出版された日系書籍はもちろんだが、日本で出版されたラテンアメリカ関連本もほとんどを置いてある、稀有な本屋である。高野さんは日本の書籍を輸入販売するのを本業としていたが、ほとんど儲け度外視で日本の研究者にブラジルで出版された社会科学や歴史関連書籍を送る仕事も対応していた。10年以上前であったが岩波書店の雑誌『図書』でも紹介されていたし、『地球の歩き方』でも長い間高野書店に言及されていたように、日伯文化交流の架け橋的な存在であった。

その高野さんが4月20日夜、急逝された。

山梨県出身、1940年11月8日生まれなので、享年66歳。伝統校、山梨県立日川高校を卒業後、数年間日本で働いてから、ブラジル移民を決意、「あるぜんちな丸」にて1962年5月11日、サントス着。南米産業開発青年隊の八期生としてパラナ州ウムアラマにあった「開発青年隊パラナ訓練所」に入植。数年間の農業活動の後、GMに勤務してから1975年「高野書店」をサンパウロ市リベルダージ区に開店した。日本ブラジル交流協会では理事も歴任し、長年に亘って日伯交流の人材養成に直接関与してきたことは広く知られている。また日系社会の研究機関サンパウロ人文科学研究所の財務理事も務めていた。

文章家でもあった高野さんは1972年『コロニア文学』に小説「綿摘む頃」を発表している。筆者も以前一読して、日本の農民文学に近いリアリズム小説だな、との読後感を抱いたことは記憶にあるので、今回読み返そうとしたがどうにも見つからない。ただ、2006年2月の「黒板ふき」(毎月の手作り書籍到着案内に付されたミニエッセイ)に高野さん自身が書き残しているので、これを引用しておく。

「早朝5時起床。月一度青果物市場への配達だ。お客様の殆どは花卉関係なので、花の市が立つ火曜か金曜日のどちらかだ。私が着く6時頃の広大な場内は活気と喧騒の一大交響曲だ。その中を雑誌を届けて歩くのだが、朝露の中で摘れてきた草花の彩りと香り。生産者の笑顔に出逢えるのは、ひと月ごとが生活サイクルである私の仕事の中では、一番やり甲斐のあるひと時だ。

そんなある日、お客様の店先で売られていたひと枝の綿花が、気忙しい私の歩みを止めさせた。その枝先には50個余りの綿が真っ白に開き誇っていた。

折からの朝日の中に、唐ルわっ狽ニ開いている繊維の感触が、私の指先に40年余りも昔の綿畑へ、綿摘みの季節へと呼び戻してくれた。その頃の綿畑の日々を綴って「コロニア文学」に応募したら、その新人賞候補作にと、同人誌の活字にしてもらえたのも昨日のように.....。綿と本屋さん、店に飾ったひと枝が今日も楽しい話を紡いでくれる。」

小説の次に『コロニア文学』に発表されたのが、紀行エッセイ「パラチまで」(1973年11月号)である。73年1月にパラチを旅した時の、叙情的な文章の書き出しはこうだ。

「波止場、桟橋、埠頭いずれもこの雰囲気を表現するのにはぴったりと来ない。やはりこの場合はここの言葉「カイス」がいい。

そのカイスの先端に立って海に向かう。六時にあとほんの少しという頃、直ぐ鼻の先の半島を形づくっている山々の重なりの合間から、もう赤味も随分薄らいだ太陽が、もやっている船の帆柱、舳先、静かに広がり走る航跡の波頭にと躍る。

パラチの港の日の出だ。パラチ、この何か憧憬を抱かせる響きを持った地名を、地図の上に思い出してからもうどのくらいの歳月が経っただろうか。」

かつて黄金を積み出した、歴史的な港町を訪ねた高野青年の感激ぶりが伝わってくる。

ほかにも、読者を引き込む魅力あるエッセイをいくつも書き残しているので、『高野泰久作品集成』を編纂すべきと筆者は判断している。

高野さんの存在は大きかった。高野さんを喪った今ごろになって、ようやくそのことに気づいている。高野さんの遺徳を偲びつつ、合掌。