会報『ブラジル特報』 2007年
7月号掲載

                       田所 清克 (京都外国語大学教授)


「バイーアを見ずして、死ぬことなかれ」といわれるほどに、バイーア、すなわちサルヴァドールは魅力にあふれた街(まち)である。一説では、365もの教会があり、黒人住民の多いことから「黒いローマ」とも称される。旧い記念建造物がそこかしこに残っており、さも街全体が博物館のようだ。というのもそれが、地層図のように積み重なる過去500年の時間を、サルヴァドールという一つの空間の中にそっくり閉じ込めているからなのだろう。しかもこの街は、風光明媚であるだけでなく、アフロ系の濃厚な宗教や食文化、多義性を秘めたカポエイラ[格闘技の一種]、土俗的なカーニバルに表徴される数々のフォークローレ、芸術、音楽等々、観光には事欠かず、訪れる者を十分満喫させてくれる。

が、この種の魅力は何もバイーアに限ったことではなく、北東部全体についていえることだろう。であるから、北東部の津々浦々を旅すれば、あまたの魅力を発見すること請け合いだ。自らの好尚ながら、近代都市フォルタレーザとは対照的に「ブラジルのアテネ」といわれ過去の歴史の中に生きているような、ババスー椰子が茂りアズレージョ[彩色陶板]で装飾されたマラニャン州の州都サン・ルイース。白砂の磯洗う緑なすセアラーの海原に帆走するジャンガーダ[三角形の帆をつけた漁舟]、思わず、オー、リンダ(O
Linda!
=まぁ、何と美しい!)と口を発せずにはおれない、オリンダの世界遺産にもなっている絵画的な宗教建築群、内陸部セルトンの半砂漠カアチンガ地帯を煌々とあやしく照らす月光と、そこに群落するサボテンなどの有棘植物が点在する自然景観、北東部の詩情を高々と哀愁を込めて歌い上げる即興詩人(レペンティスタ)たち、オリンダと隣接する、17世紀のオランダ的な香気が漂う「ブラジルのベニス」と形容されるレシーフェ、肥沃土マサペーの上に綿々と波打って広がるサトウキビ畑などは、そのほんの一例である。30数年前の留学時に、一ヶ月あまりにおよぶ北東部への旅を通じて私は、この地にすっかり魅せられ虜になってしまった。爾来、この地域は、私の職業としての学問の主たる対象となっている。

ところで、旱魃のためになす術もなく故里を後にして他の地域に出向いた、罹災した北東部人(ノルデスティーノ)の望郷の念は、ルイース・ゴンザーガの曲(うた)「白い翼」に吐露されているように、思いの外強いものがある。彼らは、乾涸びた生まれ故郷の大地に慈雨があり、緑の原野が再びよみがえるのを待ち侘びながら、いつしか帰郷できる日をひたすら神に請い願う。そうした北東部人の心理とはいささか異なるが、私が北東部への郷愁にも似た感情を抱くのはおそらく、この地域が魅力に満ちみちたアルカディアを想わせる牧歌的な世界であることや、国の基層文化が形成された、原初的で根源的なものを秘めていることによる。

周知のように、ポルトガルの国家形成のプロセスが北部地域から展開したように、ブラジルの歴史は北東部から始まった。つまり、この国を発見したペドロ・アルヴァレス・カブラル一行が上陸して十字架を打ち建てたポルト・セグーロも、旧宗主国ポルトガルが初めて総督府を置いたのも、はたまた、最初の経済サイクルが興ったのも、北東部の地であった。その意味で北東部は事実、この国のかたちのプロトタイプをなしており、それは文化に限らず、半封建的な家父長制社会の伝統や旧植民地的構造といった事象にも痕跡を留めている。ともあれ、500年の歴史を通じて、北東部ほど多方面にわたってあまたの人材を輩出したところはない。したがってここは、多様で豊かな芸術文化が集積している、国民文化のメッカといえるだろう。にもかかわらず、北東部は1910年代初頭に至るまで、南部以南の国民にとっては知られざる世界であった。「もう一つのブラジル」といわれる所以である。ちなみに、その要因は、国内移住が当時まで活発でなかったことや、情報・通信の欠如にあったらしい。この点、北東部が国民の関心を呼び、耳目を集めるようになるのには、1920年代後半まで待たねばならなかった。それまでの北東部についての国民一般の認識は皮相的で、周期的に襲う旱魃と、主として貧困に基因する社会問題が山積する地域、といった程度のものでしかなかった。

畢生の大作『大農園の邸宅と奴隷小屋』の著者である、ブラジルを代表する社会史家で社会人類学者であるジルベルト・フレイレの記念碑的な書『1926年の地方主義宣言』の刊行によって、これまで蔑まれていた北東部の地方的な伝統と文化的価値の見直しがおこなわれ、とくに郷土色豊かな芸術文化を評価しようとする気運が一気に高まった。

郷土偏愛や分離主義を意味しないフレイレの唱える地方主義の要諦は「それぞれの地方が積極的かつ創造的に一つの国民的な組織となるべく、互いに補い合い融通し合える体系」であり、『砂糖園の子』の作者であるジョゼー・リンス・ド・レーゴにいわせれば、「本質的にブラジルの国民性と人間の個性を意識したもの」に他ならなかった。

かくして、フレイレの思想に呼応した北東部に根差した現代のブラジル文学を代表する小説家の一群が、いわゆる地方主義文学を通じてブラジル性を投影した、世界に名だたる「1930年代小説」を生み出したのである。

文学に限らず、北東部の地域性が生み出した音楽、宗教、料理法を含めた食文化などは、他の四地域と較べてみてもブラジル性が色濃く反映されている。北東部固有のリズムであるバイアンで、奥地の峻厳な風土を素朴な叙情性と共に哀愁を込めて歌った曲や、カポエイラから発したといわれている、カーニバルの花形的な存在の舞踊フレーヴォ、アフリカの原始宗教であるカンドンブレー、デンデー油やココナッツミルク、唐辛子などをふんだんに使ったアフロ・ブラジル料理のアカラジェー、ヴァタパーなどは、その典型であろう。

中でも地方主義文学は、その意味では際立った存在だ。概して作品は、新写実主義の視座から、北東部の多様な自然や文化風土を背景幕として、貧しくも人間性を喪わず、人生を諦観しながら運命に身を任せる、北東部人のありのままの姿を活写している。この点では、北東部の地方主義文学は、南部のそれとはまったく異質のものといってよい。国土認識を通じて真の国民文学を創造することに収斂された、ローカルカラー豊かな北東部の小説はしたがって、私たちを惹きつけてやまないブラジル性(ブラジリダーデ)という国民文学の持つ本質と独自性において、ナショナルアイデンティティーの拠り所ともなっているのである。

奇しくも私がこれまで訳した3冊のブラジル文学作品、すなわち『イラセマ』(Iracema)、『砂糖園の子』(Menino
de
Engenho
)、『カカオ』(Cacau)はすべて北東部を舞台にしている。しかも、そのいずれもが、ブラジル性を色濃く投影した好個のものだ。今や静謐で骨太の叙事詩的な古典となっている、ジョゼー・デ・アレンカールが純乎たる作品に仕上げた民族形成の寓話『イラセマ』。文芸評論家オット・マリア・カルポーが「きわめてブラジル人的な」と称したジョゼー・リンス・ド・レーゴの手になる、プルースト流に北東部の失われた幼年時代を描いた自伝的小説『砂糖園の子』。そして、原色的で目の眩むような強烈な風光の南バイーアのカカオ農園での、農業労働者の搾取や階級意識の問題などを主題にした、「カカオ連作」の白眉である『カカオ』。こうした北東部の文学は、扱うテーマは異なるものの、いずれをとっても旧い伝統に裏打ちされた「もう一つのブラジル」の風土や多様な文化、北東部人としての人間の美学などを雄弁に物語っているものが少なくない。私が、淫するほどに北東部文学に虜になっている事由(わけ)はいわばここにあり、「一国民を知る最良の鍵は文学」という、異文化理解に対する持論の実践でもある。