会報『ブラジル特報』 2008年
5月号掲載

                           瀬川(在マナウス日本総領事)



マナウス 遙か遠い街

赤道の近辺(南緯3度8分)にあるマナウス市は、サンパウロから2,700キロ、リオ・デ・ジャネイロから2,800キロ(東京とマニラ間の距離)、首都ブラジリアから1,300キロの遠隔地にあり、現在、ブラジリアとの往来の交通手段は航空機に限られている。また、マナウスは、ブラジル国内の中では日本から最も遠く、日本(成田)まで乗継時間を含めると30時間を要する。マナウス市は、大西洋に注ぐアマゾン河口から約1,500キロ内陸部にある。マナウスの海抜が僅か93メートルと低いが、街中は起伏が多く、雄大なアマゾン河のイメージとは違い坂の街である。街中にポルトガル風の古い建物も多く、起伏の多いリスボンの街が思い出され、私がマナウス着時にコレアマナウス市長を表敬した際に、同市長は、市庁舎は市長の祖父(大工のポルトガル移民)が建てたと述べていた。

辺境の国防と税関の歴史

現在のマナウス付近は、17世紀半ばまでアマゾンの寒村に過ぎなかったが、1669年にポルトガル人がこの地に要塞を建設、サォン・ジョゼ・ド・リオ・ネグロと名付け、その後1832年にマナオス村になった。1848年にマナウス村はリオ・ネグロ市に昇格し、1856年よりマナウス市に改称され、現在に至っている。マナウスの名は、地元インディオのマナオス族に由来する由。マナウスの観光名所は1896年完成のアマゾナス劇場であるが、地元のマナウス市民に人気があるのは、1906年建設のマナウス税関(建物)である。アマゾン河源流の玄関としての税関の歴史は、マナウスの歴史そのものである。

一昨年6月、コレア市長(元国税庁支部長)の主催で、マナウス税関(建物)建立の百年祭が盛大に行われ、私も招待された祭典には国税庁(税関)官吏OBも多数参加した。参加者には現職のアマゾナス州政府財務局次長、マナウス・フリーゾーン(ZFM)監督庁幹部、国会議員等が何名もおり、何れもマナウス政官界の要職を占めている人達であった。税制恩典のある
ZFM の日本進出企業への支援は総領事館の主要な任務であるため、マナウス税関(OB)の人脈把握は重要な仕事になっている。

アマゾン河の門戸開放と英国の影

マナウスの歴史とアマゾン河は切り離せない関係にある。
1500年にポルトガル人カブラルのブラジル発見後、アマゾン河流域はポルトガル、スペイン、イギリス、フランス等が入り乱れる争奪戦場になっていた。この中で、国家貿易を独占するポルトガルは、国防上からアマゾン河水域を外国に開放せず、19世紀後半まで外国の自由な出入りを認めていなかった。もっとも1807年にナポレオンに追われ、ポルトガル王室は英国艦隊に守られブラジルに逃れたこともあり、英国は例外であった。ポルトガル王室のブラジル統治は閉鎖体制であったが、ポルトガルの後見人である英国に対して1808年に開港し、1810年に英国と通商条約を締結している。

 ポルトガル(ブラジル)が大部分のアマゾン河水系の支配を最初に確立したのは、1750年のマドリード条約(アメリカ大陸の実効支配を承認)であったが、ポルトガルとスペインが敵対した1758年の7年戦争により同条約が破棄され、アマゾン河の支配を巡る紛争はその後も続いた。

 1867年のアマゾン河の門戸開放、1872年の英国アマゾン河汽船航行会社の設立により、マナウスはようやく日本と同時期に国際舞台に登場することになった。創成期のマナウスのインフラは、英国資本と技術によるところが大きく、現存する街中の水道、ガス、市電、港湾、建物にもその影響が残っている

マナウスのゴムの歴史、英国と米国

 マナウスに最初の繁栄を齎したゴムの黄金時代は1890年から1910年代であるが、ゴムは20世紀初頭の新しい「アマゾンの神経と生命」といわれ、1890年から第1次世界大戦までブラジルの第2位の輸出品であった。
 ゴムの最盛期には、マナウスの中心部に電車が走り、ブラジルで初めての電灯、英国からの下水排水管も敷設され、当時のブラジルでも珍しい欧州の風情が街に溢れていた。欧州から輸入の建築材で贅沢に建設されたアマゾナス劇場、中央市場がマナウス港の近辺にあり、街の観光名所になっている。 

 
 マナウス村19世紀半ば頃(アマゾナス州観文化局資料)


 他方、ゴム景気のマナウス繁栄の裏では、ゴム採取の現地労働力が不足し(当時のマナウスの人口5万人)、東北ブラジルの出稼ぎ労働者、国内各地から送り込まれた囚人達が劣悪な労働環境の中でゴム採集に従事した。ゴム採集の元締めは地元実業家であったが、金融と流通を支配していたのは英国人であった。
 そうした中で、第1次大戦後に英国人がアマゾンのゴム種子を密輸してマレーシア(植民地)の大農園で栽培に乗り出した結果、
1910年頃から天然ゴム価格が急落、自然採集に依存していたアマゾンのゴムは国際競争力がなく、マナウスは衰退の運命を辿った。

 ところが、第2次世界大戦中に日本軍がマレー半島を占領した結果、英米はゴムをアマゾンに依存することになり、ゴム生産が復活した。ゴムは航空機・戦車の重要な軍需物資であり、米国はブラジルに対してゴム生産のため1億ドルを供与、軍事援助、アマゾン河の運輸インフラ整備(カタリーナ水上機の配置等)等大型の援助を行った。カタリーナ機は、長距離の輸送機としてマナウスとマイアミを結ぶ直行便に使用され、戦後も陸路のないアマゾンの水上交通の要として活躍した。

 米国は、ゴム等戦略物資を固定価格でブラジルから買い取るワシントン協定を締結し、ゴム銀行、ゴム開発会社(RDC:Rubber Development
Corporation)等いろいろな機関をマナウスに設立した。当時は多数の米国人が常駐し、マナウス市民は RDC
等米国機関への就職に群がり、市民には英語の学習熱が沸き、アメリカ煙草が流行する等、当時のマナウス市にはアメリカ文化が満ち溢れた。
 当時、ブラジルの最大の輸出品コーヒーは、1929年の大恐慌の煽りで大暴落していた(57%、価格維持のため1931年から44年に7,821万表を焼却、海中に投棄)。苦境にあった当時のブラジルにとりアマゾンのゴム景気の復活は、米国から多額の援助を受ける中でまさに天佑であった。
 この様な状況の中で、ゴム生産のため再び東北ブラジルから大量の労働者がアマゾンに送り込まれ、
19世紀末と同様の過酷な労働条件の下でゴム採取に従事した。ブラジルは、中南米では第2次大戦中に連合国の一員としてイタリア戦線に軍を派遣した唯一の国であり、ゴム採集のためアマゾンの密林に送られた労働者は「ゴムの兵士」と呼ばれた。ところがその死者数は欧州に送られた兵士の死者数を遥かに上回ったため、ゴム採集の労働が如何に過酷であったかが語り伝えられている。やがて第2次大戦が終り、アジアでゴム生産が復活した結果、アマゾンのゴムは再び衰退し、一時的なゴム景気は終焉を迎えた。

日本とマナウス
 現在、マナウスはフリーゾーン(ZFM)により歴史上二度目の長期繁栄を享受している。ブラガ州知事は、「ゴム景気の時代にアマゾナス州は多大な犠牲を払ってブラジル経済の4割を支えていた。今やブラジルが当時の恩に報いるために、フリーゾーンの特権をはじめ全面的にマナウスを支援するのは当然である(ZFMの税制恩典の堅持!)」と機会ある度に叫んでいる。当初知事の叫び声を半信半疑で聞いていた私も、長く住むマナウスに愛着を感じてくると、ブラガ知事の叫び声に奇妙に納得させられる心境になるから不思議である。
 最後に、マナウスの歴史を理解するキーワードは過去の「ゴム景気」と現在の「マナウス・フリーゾーン
(ZFM)」であるが、日伯交流年・日本人ブラジル移100周年を迎え、第二次大戦中の「ゴム景気の復活」と ZFM の外国投資の
6割占める日本が「現在のマナウスの繁栄」に深く関係していることがあらためて思い出され、日本とマナウスの関係が今後もますます深まることを願っている。