会報『ブラジル特報』 2013年11月号掲載
吉田 頼且 (拓殖大学国際学部教授)
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「中所得の罠」の本質は、工業化の未完成であり、ラテンアメリカ諸国は、輸入代替工業化戦略に頼りすぎて国内市場と国際市場が長期にわたって分断され、国内市場の縮小と国際競争力の低下により、国際収支と国内経済構造が悪化し続けた結果、経済が長期停滞に陥ってしまった。 ブラジルは、1980年代から2000年まで、一人当たり実質GDPが4,000ドル(2000年価格)以下で低迷し、アルゼンチンなど他のラテンアメリカ諸国も含めて、いわゆる「中所得国の罠」に陥った諸国のひとつといわれてきた。 ブラジル、アルゼンチンなどラテンアメリカ諸国は、1960年代から70年代に低所得国から中所得国に移行したが、80年代の債務危機をきっかけに長期停滞の局面に入ってしまった。 関(2013)によれば、貧富の差が大きく、社会の流動性が低いことが「中所得の罠」に陥っている国々に共通する現象である。所得格差の拡大よりも深刻なのは社会階層が固定化することで、各階層間の移動が容易であれば、経済と社会の活力を維持することも可能であるが、そうでなければ社会が不安定となり、経済発展も停滞、後退する恐れがあると指摘している。さらに、韓国、台湾などは、農地改革によって、農業の生産性を向上させることを通じて、余剰労働力の他部門への大規模な移転を可能にした点や、工業部門で開発した技術をうまく農業に応用し、農業の発展と近代化に注力した点が貢献したと指摘している。 しかし、ブラジルは、2000年代に入ってから、中国をはじめとする新興国の資源需要をとりこんで経済成長を果たし、一人当たり実質GDPも5,000ドル(2000年価格)以上まで上昇した。中間所得層増加による社会階層の移動も進み、所得格差の指標であるジニ係数もいまだ高い水準とはいえ、2000年代を通して数値は徐々に改善している。はたして、ブラジルは、今後「中所得国の罠」から脱出することができるのだろうか。
「中所得国の罠」から脱出し、高所得国に移行した国として、韓国や台湾などがあげられる。1960年代から70年代にかけて、ブラジルの一人あたり実質GDPは、韓国と大差ない水準であったが、80年代以降韓国に差をつけられ、現在では3倍以上の大差に拡大している。IMF(2013)によれば、60年代には、ブラジル・韓国両国とも経常収支が赤字で、工業化による経済成長をめざしたが、資金調達を国内貯蓄に依存した韓国に対し、ブラジルは、国内貯蓄ではなく、海外借入と財政赤字に依存したことが原因と指摘している。韓国は輸出増による発展戦略を採用した点も特筆される。 さらにブラジルは、投資不足によって港湾・道路・鉄道等のインフラ整備が遅れており、長年投資不足がブラジル経済の弱点と指摘されてきた。国内貯蓄率の低い経済は投資率も低いとの指摘がある。
二宮(2011)によれば、『国際競争力リポート2010-2011年版』を見ると、ブラジルの港湾インフラに対する評価は、調査対象国139ヶ国中123位と低順位にランクされている。 一方、日本経済新聞(2013年9月13日付)によれば、韓国の国内市場は、従来少数の国内企業が高いシェアを占め、その利益が国内企業の研究開発費用を支えてきた。現在国内市場が外資系企業の激しい輸入攻勢にあっているが、それでもサムスン電子は、昨年度12兆ウォン(約1兆1,000億円)を研究開発投資につぎ込み、本年度も過去最高ベースの投資が続いていると指摘している。 貯蓄率に関しては、森川(2013)によれば、1996年~2011年のブラジル国内貯蓄率は20%以下であり、これは約20%のラテンアメリカ諸国平均を下回り、約40%超の新興アジア諸国には2倍以上の差をつけられている。貯蓄率の向上は、国民文化的要素が影響しているので一朝一夕には困難だが、税制インセンティブの付与等の制度的対応や、国際的にみて早い年金支給開始や高い支給金額等年金制度を見直す必要を指摘している。現在の年金制度は貯蓄意欲を低下させる原因の一つともいえる。
ブラジル政策当局の投資、貯蓄増強策については、検討はしているものの、大統領選挙を2014年に控えており、福祉充実等ポピュリズム政策を打ち出さざるを得ず、当面政府のリーダーシップ発揮を期待するのは困難であろう。中間所得層の厚みが増している点や貧困層の減少はプラス材料だが、本年6月サッカーのコンフェデレーション杯の際には、インフレ高止まりへの不満から、低所得層から中間所得層まで幅広い階層がデモに参加しており、強い政治的圧力団体層と化した。 また、ブラジルの経済成長率については、本年度2%台と予想されており、資源輸出は従来のような高い需要は期待できないと見られることから、経済成長面からも当面厳しい状況が継続すると予想される。最大の資源輸出相手国の中国は、もはや10%を超える経済成長は期待できず、従来8%が失業等社会不安を生じさせないための目標経済成長率となっていたが、中期目標を7%に下方修正した。中国は米国に次ぐ経済大国である点は変わらないものの、世界銀行(2012)は、『2030年の中国』において、中国が「中所得国の罠」に陥る可能性があると指摘している。 ブラジルにとって、中国市場は引続き有望な一大市場ではあるが、今後経済回復が期待される米国市場の重要性が増してくると思われる。米国市場の開拓を図るためには、米国と対峙的な外交政策も見直すべきであろう。メルコスール諸国をはじめとするラテンアメリカ市場もブラジルにとって重要な市場である。ブラジルは南米諸国にサプライ・チェーン・ネットワークを張り巡らしており緊密な貿易関係を維持する必要があるが、米国市場をめざすためには、アルゼンチンやベネズエラ等極端な反米諸国の意向を重視すべきではなく、むしろTPP(環太平洋経済連携協定)や「太平洋同盟」参加国のチリやペルー等との関係を重視すべきであろう。市場として中国以外のアジア地域も重視する必要がある。
投資率・貯蓄率の向上がカギ 結論として、今後予測されるブラジルの厳しい経済状況を勘案すれば、当面「中所得国の罠」から脱出するのは期待できないといわざるを得ない。しかし、中間所得層の拡大による社会階層間の流動化は引続き進展するとみられ、中長期的に貧困層の減少による所得格差縮小の方向は変わらないであろう。 農業の生産性向上による農業発展と近代化も注目すべきものがある。したがって、ワールドカップやオリンピック開催によるインフラ整備投資の機会を生かし、消費過熱を抑制し、中長期的に、投資率・貯蓄率の向上が果たせれば、「中所得国の罠」から脱出する可能性を十分有しているといえるのではなかろうか。 (2013年9月30日記)
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