猪股 淳
(伊藤忠商事㈱、中南米総支配人(兼)伊藤忠ブラジル会社社長)

 

ブラジル進出
伊藤忠のブラジル進出は、1957 年、リオデジャネイロに現地法人を設立したことで本格化する。繊維、機械、化学品、鉱物資源、鉄鋼、プラント、紙パルプ、食料、不動産、保険など幅広い取引や事業を展開し、「ブラジルの奇跡」の経済成長期には、200 名の社員を有するに至った。
80 年代に入ると、ブラジル政府の経済失策により、伊藤忠の活動も規模縮小を余儀なくされた。しかし、ブラジルでの事業を守り、育てていただいた諸先輩方々のご尽力により、今もなお、伊藤忠ブラジルは取引、事業拡大に奔走している。
現在、伊藤忠商事は7 つの営業カンパニー制を敷いているが、ブラジルには全7 カンパニーが駐在員を配し、取引や事業を展開している。

伊藤忠ブラジル史の人物
伊藤忠ブラジルの歴史の中で敢えて選ぶなら紙パルプ事業と鉄鉱石事業が挙げられる。その二つの事業設立は70年代前半に遡るが、3名の存在無くして2 つの事業は誕生しなかった。
1 人目は、故森亮人氏。伊藤忠の情報・通信分野のトップであり、社長候補として取り上げられた程の逸材であった。1959 年に入社、1961 年にリオデジャネイロ駐在となり、MBR( 鉄鉱石事業) の組成に手腕を発揮した。以降、通算15 年のブラジル駐在期間中、セニブラ( 紙パルプ事業) やアルブラス/ アルノルテ( アルミ/ アルミナ事業) などの大型プロジェクトに携わった。
2 人目は、故稲田耕一氏。伊藤忠リオデジャネイロ支店長としてMBR やセニブラの新規大型事業に手腕を発揮された。特出すべきはその人脈で、特に、故エリエゼル・バチスタ氏と肝胆相照らす仲であった。
戦後間もなく東大の数学科を卒業後リオデジャネイロに渡り、日本のパシフィックコンサルタントで仕事を始めるが、仕事柄、ツバロン港や鉄道の建設でCVRD( 現ヴァーレ) の建設責任者であったエリエゼル・バチスタ氏と知り合ったのが、二人の「馴れ初め」である。森亮人氏は、CVRD 社長となっていたバチスタ氏との面談で多くの日本企業が待たされている中、その前を悠然と通り過ぎバチスタ氏の部屋に自由に入っていく稲田氏を見て、あの日本人はいったい何者かと驚いたそうである。
稲田氏はパシフィックコンサルタント勤務の後の1965 年に森亮人氏の誘いに応じ伊藤忠に入社、リオデジャネイロ支店長となり、CVRD とのJV であったセニブラ、当時カエミ傘下であったMBR など伊藤忠ブラジルの発展をけん引する。バチスタ氏が勲一等瑞宝章を送られた際の挨拶で
「日伯の関係で今の自分があるのは、稲田氏あってこそ」と言わしめたほどの人物である。
3 人目は、故エリエゼル・バチスタ氏。日本企業の間ではあまりに有名な方であり、伊藤忠もバチスタ氏と事業を創設していった。稲田氏との関係は前述の通りであるが、CVRD の建設責任者から同社社長となり、鉱山動力大臣にもなられた。1964 年にCVRD を去るのだが、その際にMBR の社長に招聘された。CVRD 時代からMBR 社長になっても、バチスタ氏の傍らで補佐役を果たしていたのが稲田氏であった。
そのバチスタ氏は、2018 年6 月に他界された。遺影には日本とブラジルの国旗をあしらったバッチを胸にスピーチをしているバチスタ氏の姿があった。

紙パルプ事業と鉄鉱石事業の現在
森氏、稲田氏、バチスタ氏の存在なくして語れない伊藤忠の紙パルプ事業と鉄鉱石事業は、現在もブラジルの柱として操業中である。それぞれの事業に合計6 名の出向者を常駐させている。
CVRD とのJV であった紙パルプのセニブラは、現在は日本資本100%の会社となっており、年産120 万トンの紙パルプを輸出している。2017 年には、ある経済紙の調査にて、ブラジルで最も就職したい企業の1位に選出されたこと、故エリエゼル・バチスタ氏は、亡くなられるまでセニブラの最高顧問委員会の委員であられたことは、非常に誇らしい。
鉄鉱石はMBR から撤退し12 年ほど経った。しかし、2008 年に製鉄会社であるCSN が運営する鉄鉱石プロジェクト、CSN Mineração に参画したことで、伊藤忠のブラジル鉄鉱石事業は脈々と継続している。現在年間約3,000 万トンの鉄鉱石を世界に供給している。

ブラジル事業の魅力
2 つの事業の運営に関わる苦闘を書き出せば切りがない。しかし、森氏、稲田氏、そしてバチスタ氏が経験したであろう「産みの苦しみ」を思えば、乗り越えられないことは無いように感じる。3 人が出会って50 年以上の月日が流れたが、3 人の出会いに端を発する事業は、今もブラジルと日本の関係を色濃く反映する素晴らしいものである。3 人の大先輩に大いに感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。