会報『ブラジル特報』 2011年月号掲載
日系企業シリーズ第11回

                             小宮 陽(ツニブラ取締役)


 ブラジル通の方でしたら、ツニブラという社名を一度は聞かれたことがあることと思いますが、この社名が何から由来しているかご存知の方は少ないかと思います。

 日本とブラジルを結ぶ架け橋としての旅行会社を目指して日伯交通社という社名で創設されましたので、そのポルトガル語名のTURISMO NIPO-BRASILEIROのイニシャルを集めてTUNIBRA(ツニブラ)としたのが、社名の始まりです。

 ツニブラが正式に創業したのは昭和24年(1949年)2月、終戦から数えて4年目でした。当時のブラジルには、日本大使館も領事館もなく、正式にはブラジルと日本との間には国交もありませんでした。ブラジルに住む日本人が戦後の日本を訪ねようにも、その方法も手段もありませんでした。昭和24年(1949年)になってようやく、当時日本の権益代表であったスウェーデン王国の好意により、在外の邦人が海外に旅行できるようになりました。もちろん、日本国旅券などは存在せず、すべてスウェーデンの旅券で旅行しなければなりませんでした。つまり、ツニブラの発足は、当時ブラジルに在住する日本人達からの強い要望があったことに大きく起因しています。ツニブラがサンパウロ市中心のConselheiro
Crispiniano通りに本社を開けたのも、すぐ近くにスウェーデンの領事館があったからです。このツニブラを創設したのは3人の日本人移民でした。

 サンパウロ市に“ESCOLA ESTADUAL KEIZO ISHIHARA”という名前の州立学校がありますが、故石原桂造の名誉と功績をたたえて名づけられた学校です。1970年末に享年78歳で生涯を閉じるまで、貧しい邦人達の救済に一生を捧げた偉大な日本人でした。1966年に日本政府は勲五等を贈ってその労をねぎらいましたが、その石原桂造が創設者の一人でした。もう一人は明大出身の藤倉次郎です。戦前、佐藤次郎(慶応)と組んで、デビスカップで活躍した名テニスマンです。相棒の佐藤次郎を失った後、ブラジルに移住し、当国のテニス会の発展に寄与しました。親友の赤川威陽(タケハル)がツニブラを創設するのに参画し、赤川を助けました。

 そして三人目は赤川威陽です。愛知生まれの満州育ち。奉天中学卒業後、東京の工専在学中に両親のブラジル移住に同行し、ブラジルに渡りました。家族とともに密林を切り拓いて自分の農場を設営しました。のち、移住地の組合や、拓殖会社の要望で経理を担当するようになり、この時代の経験と信用が、ツニブラ創設、初代社長として生まれ変わるきっかけとなりました。

 62年前に3人で始めた旅行代理店ですが、最盛期はサンパウロ市内に本店、リベルダージ支店、パウリスタ支店、他にリオ支店、イグアス支店、ブラジリア支店とブラジル国内で6店舗、合計で約150人の社員を擁し、IATA(国際航空運送協会)販売ランキングで南米1位になった時代もありました。現在では、二代目の Ricard Takeshi Akagawa が社長を務め、営業拠点はサンパウロ本店、リオ支店、イグアス支店の3店舗で、社員数は約100名となっております。

サンパウロ市内の本店