広く信じられている通説によれば、名曲『イパネマの娘』はこうして作曲ジョビン、作詞ヴィニシウスという名コンビによって誕生した。作曲されたのは1962年であったが、初レコーディングが行われたのが1963年であったので、今年が “生誕50周年”となる。
音楽史的にいえば、熱狂という言葉に集約できるような黒人音楽であったサンバに、米国発の大都市音楽カルチャーとりわけジャズがブラジル的にブレンドされて出来上がったのがボサ・ノヴァであるが、1958年にアルバムがリリースされた『シェガ・デ・サウダージ(想いあふれて)』をもって嚆矢とする。
このボサ・ノヴァが米国で“発見”されたのは、62年11月のカーネギー・ホールにおける記念碑的コンサートにおいてであったが、大衆に受容されるようになったのは、この『イパネマの娘』以降である
軽快なリズムと典型的なリオのイメージ、これらが“幻想的に”カクテルされて勝手に国境を越え、世界中に広まった“新傾向音楽”だったから、といえようか。
もっとも『イパネマの娘』がヒットした理由は、ノーマン・ギンベルによる英訳を当時ジョアン・ジルベルト夫人であったアストラッド・ジルベルトが即興で歌い、ポルトガル語を歌うジョアンとのデュエット形式という、米国人にもわかるように考えられたやり方で、アルバム『ゲッツ/ジルベルト』が63年米国でリリースされたからだ。スタン・ゲッツという音楽マーケッティングの鬼才のおかげでヒットチャートに躍り出たのであった。
最優秀アルバム賞、最優秀ジャズ・パフォーマンス賞、最優秀技術賞という三つのグラミー賞を獲得し、ポップ・チャート部門では販売数第二位となったのであった。ちなみに、第一位は、ビートルズだった。
すなわち、 “Garota de Ipanema” ではなく “The girl from Ipanema” としてブレークしたのであった。(英訳で歌ったのが何故ギターの神様ジョアンでなく、夫人のアストラッドにお鉢が回ったか、それはジョアンが単純に英語が出来なかったからだ)
さて、50年も経過した名曲となると、世界中の大衆音楽研究者が重箱の隅をつつくような研究をしてくれるので、へえーと思うような“新事実”が発掘されたりするものだ。この機会に、こうした研究書を読み直して、もはやブラジル現代史の一部となった『イパネマの娘』物語のあれこれのうちのいくつかを、眺めておきたい。
まずモデルとなったエロイーザ・メネゼス・ピント・ピニェイロについての余計な情報。彼女が生まれたのは1939年であるから、『イパネマの娘』が作詞作曲された62年当時は既に23歳だった。音楽からイメージされる、10代の娘ではなかった。さらには、彼女の父親は陸軍少将で、のちにSNI(国家情報局)の中心的幹部としてヴィニシウスが編集責任者の一人であった反政府週刊新聞「パスキン」への言論弾圧を進めた、という皮肉な現実があった。ボサ・ノヴァ関係者の多くが、表現の自由を求めて、軍事政権と対決する姿勢をみせていた、という時代背景を考えれば、“必然的関係”であった。
また作曲作詞の場所について。バー“ヴェローゾ”において五線の上にペンを走らせた、というのはまったくのウソで、作曲はジョビンの家(イパネマ)で行われたし、ヴィニシウスが作詞したのは避暑地ペトロポリスにおいてであった。とはいえ、彼らが常連として通っていたバーは、名前を“ヴェローゾ”から“ガロータ・デ・イパネマ”へ変更したことで有名となり、世界中のジョビン&ヴィニシウス・ファンがここを訪れては、ビールを飲んで満足する空間となっていることは、周知のとおりだ。さらにいえば、このバーの前の道も、モンテネグロ通りからヴィニシウス・デ・モラエス通りに変わっている。まさに、『イパネマの娘』が、リオの地名も変えてしまったわけだ。
ほかにもいくつもの、通説と事実のズレがあるが、この辺でやめておこう。
ポップ音楽の歴史において、レコーディングされた回数では『イパネマの娘』は世界で二番目であり(一番はビートルズの『イエスタデー』)、まさに世界中で愛された名曲であることは、“音楽統計学”からも証明されている。
といったことを全く知らずとも、スウィング感あふれる、あの芸術的な名曲を楽しむことは、いつでも、どこでも、できるのだが。