執筆者:深沢 正雪 氏
(ブラジル日報編集長)

ブラジル国籍の愛知県人

4世の大阪理沙さん

「3世も4世も何も変わらないのに、4世は日本に行けないのは、なんだか納得できません」―9月22日に本紙編集部を訪れた大阪理沙さん(28歳、4世)からそう言われ、確かにその通りだと感じた。ブラジル訪問していたブラジル日報協会会長の林隆春さん(73歳、愛知県一宮市在住)の「4世の声を聞く機会を持ちたい」との意向から、コラム子も同席して取材した。
彼女のように日本生まれの世代は、国籍こそブラジルでも人格形成は日本だ。大阪さんは1994年に愛知県瀬戸内市生まれ、3歳からはブラジル人住民だけで約4千人が住むことで有名な愛知県豊田市にある保見団地で暮らしてきた。

ブラジル日報協会の林隆春会長

 

大阪さんは「東小学校に通っていた頃、一クラス30人のうち10人がブラジル人だった。ずっと普通クラスで日本人と一緒に勉強しているうちに、自宅でポルトガル語をしゃべるのが恥ずかしくなって、日本語で返事をするようになったとき、父にポルトガル語を忘れないようにしなさいと注意された」と思い出す。
「あるとき、右翼の街宣車が保見団地に来て、スピーカーを響かせて『ブラジル人出ていけ!』と大きな声で叫ばれたときは、本当に怖かった」と思い出す。
ところが2008年9月にリーマンショックが起き、翌09年10月に両親の判断で日本政府の帰国支援策を受けて、家族でブラジルに来た。あと6カ月で中学校を卒業というタイミング、まだ15歳――。日本育ちの彼女にとっては、国籍上の祖国ブラジルはまったくの異国だった。「本当は日本に居残りたかった」が、15歳は未成年のため、帰国を決めた両親と行動を共にせざるを得なかったという。この話をきいて、彼女は「ブラジル国籍の愛知県人だ」と確信した。多分、そのアイデンティティは一生変わらない。

保見団地(あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons)

日本政府の失策が生んだ「宝のような人材」

彼女は「リーマンショック世代」だ。現在ブラジルには彼女と同じように日本で生まれ育って、10代半ばまでにリーマンショックに直面し、未成年であるが故に、親に連れられて無理矢理帰伯したこの世代が、数千人はいるのではないかと推測される。
彼ら世代の特徴は、日本語が堪能で、日本文化に強い愛着があり、国籍とは関係なく「日本人的なメンタリティを持っている」ことだ。もちろん、日本の学校には小学校程度しか行っていないことから、日本語のレベルはあまり進んでいない場合も多い。難しい日本語の文章の読み書きには苦労するだろうが、ネットニュースは難なく読みこなすし、コメントは問題なく書き込める。だが彼らが4世の場合、定住ビザがないので日本に帰ることはできない。
コラム子は彼らを「コロニアの宝」だと思っている。戦後移民の若手ですら70代後半~80代前半になってしまった現在、「日本語世界」を継げる世代はいない。だがこのリーマンショック世代は、日本人的な感性を備えているからだ。
彼らはリーマンショック、世界金融恐慌が生み出した特異な世代だ。日本の外国人労働者の8~9割が雇い止めされるという危機的な状況の中で、日本政府が一人当たり20~30万円を支援して帰国支援するという政策をとったことが、ブラジルにこの世代を生む決定的要因になった。
日本の長期的な国益を考えたら、これは失策だったと思う。上手に育てればとんでもなく日本の役に立つ可能性がある多文化人材を、みすみす追い出してしまったからだ。だがその結果、ブラジル日系社会側には棚ぼたで「宝のような人材」が降ってきた。この世代を大事にすることで、日系社会には「日伯交流の新しいエンジン」が生まれる可能性が高い。

「15年間近くブラジルにいるが、この国を好きになったことはない」

15歳でブラジル帰国をした大阪さんだが、普通の日本人移民と違ってポルトガル語会話では不自由しなかった。だが書き言葉は別だった。「話せるけど書けない」。それでも3カ月間だけブラジルの中学校に通い、すぐに高校に入学した。
「最初は先生が言っている内容が全然理解できなかった。授業についていくのに2年ぐらいかかりました。ポルトガル語の点数が低かったから、自宅で一生懸命、ポルトガル語の本を読んだり、書く練習をした。州立高校に行きましたが、イジメはありませんでした。良い友達と先生に恵まれて、なんとか追いつきました」と学校に適応するまでに苦労があった。
「高校卒業直後、すぐに大学の授業についていく自信がなくて、しばらく働き、23歳の時に大学に入学して卒業しました」という。「帰ってきた頃は日本語で考えていましたが、今はポルトガル語で考えるようになりました」とも。
「このことはあまり人に言ったことはないんですが、あれから15年近くブラジルにいますが、この国を好きになったことは一度もないんです。今でも日本が大好きです」と語りながら少し涙ぐんだ。
ちょっと間を置いて、「あの頃日本に戻りたくて、その気持ちが強すぎて、だいぶ心理カウンセラーのお世話になりました。もちろん今は大丈夫です」と顔を上げた。
林会長はそれを聞きながら、「『12歳の壁』という言葉がある。それ以上の年で帰った人は苦労することが多いという年齢の区切りだそうだ」とコメントした。
人格形成期に過ごした国が、その人の〝心の故郷〟になると言うことだ。同じ人間が、日本で人格形成期を過ごせば日本人のように育つし、ブラジルで過ごせばブラジル人のようになりやすいということでもある。
それは家庭環境、学校などの教育環境に大きく左右されるので一概には言えない。だが一般的には、国籍と関係なく、中学ぐらいまでを過ごした場所がその人の一生の〝心の故郷〟になる。
逆に言えば、12歳までをブラジルで過ごしてから日本に行った場合、なかなか日本の文化風習に馴染みにくいし、日本語も覚えにくい。「三つ子の魂百までも」という言葉があるが、「12歳までに育まれた魂」はその後の一生、70~80年間を左右する。
ブラジル日本移民にも同様な経験がある。「子ども移民」とか「準2世」とカテゴリーされている。10代前半までに移住すると、現地の言葉を覚えやすく、頑張れば本国人並みに使いこなすことができる。だが、20歳過ぎだと言葉が不自由なまま、その後の一生を過ごす傾向がある。
別の言葉でいれば、「いくら長い年月を移住先の国で過ごしても、言葉が達者になるとは限らない。むしろ、より幼い時に移住した方があっという間に言葉を覚える」ということになる。
大阪さんは「日本にいるブラジルの3世世代の多くは15歳以上で日本に行っているから、日本語を話せない人がとても多い。でも、4世の大半は日本で生まれ育っているから、ほとんど日本人と同じように日本語をしゃべる。でも3世には日本に滞在するビザがあり、4世にはない。これは不条理だと思います」と感じている。

使いづらい4世ビザ

ブラジルのパスポート(República Federativa do Brasil, Public domain, via Wikimedia Commons)

 

4世ビザに関しては本紙22年7月15日付《4世受入れ制度の条件緩和要請=日系5団体から自民党議連に=年4千人枠に3年で百人余り》(https://www.brasilnippou.com/2022/220715-21colonia.html)にもある通り、4世ビザという枠だけ作ったが、実際にはそれを取得する条件が難しすぎて使えない状態が続いている。
同記事の中で、二宮正人CIATE理事長は《下地幹郎先生のおかげで4世ビザ制度ができたが、年間3、4千人枠のはずが3年経ってもわずか100人余りしか行けていない。明らかに条件が厳しすぎる。在日の2、3世も高齢化してきた。4世が厳しいままでは、日系人が日伯の絆の役割を果たせない。ぜひ緩和をお願いしたい》と要望している。
その後、本紙6月7日付《入管庁、4世在留資格制度変更へ=「定住者」資格で無期限滞在可能に》(https://www.brasilnippou.com/2023/230607-61colonia.html)にあるように、今年に入って若干緩和された。だが大筋は変わっておらず、3世までの査証要件とはほど遠い状態が続いている。大阪さんの場合、もう少しで29歳。日本語能力に問題はなくても、30歳までしか申請できない今の4世ビザは使いづらいという。

祖母が生まれた時に総領事館があれば、3世

話をするうちに明らかになったのは、大阪さんの祖母は1948年に聖州で生まれたことだ。昨年3月下旬に4回にわたって連載された《戦争で日本国籍奪われた2世世代》(https://www.brasilnippou.com/?s=日本国籍奪われた2世世代)の世代だ。
先の大戦中、ブラジル政府は1942年1月に連合国側につくことを決め、枢軸国側に外交断絶を宣言したため、日本国在外公館は1942年7月に総引き揚げとなった。そこから1950年12月に在外公館が復活するまでの約8年間、ブラジルで生まれた日本人移民の子の出生届けは出せなかった。
大阪さんの祖母が生まれた1948年はまさにその期間だ。この時に出生届が受理されていれば大阪さんは3世になり、訪日定住することに問題はなかったはずだ。過去の戦争のしわ寄せを、現在の4世世代が受けている。
本紙3月26日付同連載には《在サンパウロ総領事館よると、51年8月から戸籍事務を正式に扱うことになり、その埋め合わせとして戦中戦後に生まれた子については、1952年まで届出期限を過ぎていても出生の届出を受け付ける特別な救済措置を取っていた》とある。
だが、51年8月から1年間の救済措置があったとしても、大半の移民は地方で農業をしている時代で生活は苦しく、唯一の情報伝達手段である邦字紙だって行き渡っていなかった。生活に余裕がなければ定期購読は難しい。
事実、同記事の中で高木ラウルさんは「当時の子育て世代の親は仕事で忙しく、出生届けどころではなく諦めの境地だったと思います。情報がいきわたる時代でもなく、奥地からの交通事情を考えても、手続きに行くのは大変なことでした」とコメントしている。
高木さんはまさに終戦直後の1946年にサンパウロ市で生まれたが、両親は総領事館の再開後、ラウルさんの出生届を出さなかった。だが高木さんの姉の聖子さんは、1939年に生まれて二重国籍を持つ。総領事館が1946年にあれば、ラウルさんにも日本国籍があったかもしれない。
1951年からに行われた救済措置で、6千件以上の出生届けが出され、日本国籍を取得できた一方で、個々の事情で届出をしたくてもできない人々もいた。公式記録による戦前の日本人移民の数は19万6737人。その数値からすると、8年間に生まれた子供の数は3、4万人いてもおかしくない。つまり救済措置を受けられなかった人が相当数いたことが予想される。
現在、中国残留孤児やフィリピン残留2世などには日本国籍を取得する道が開かれている。だが、同じように戦争によって日本国籍が取れなかったブラジル日系2世には、その道は残されていない。
加えて、林さんは「1990年頃に20~30代で日本にやってきた日系ブラジル人が、今もたくさん残っている。彼はもう60~70代になって老人ホームに入る年代になってきた。でも、ビザの関係でそれを世話する世代がいない。これは深刻な問題です」と提起する。
4世ビザの条件緩和は、今こそしっかりと考え直しても良い時期だと思う。