執筆者:田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)

★★★この記事は執筆者田所先生の許可を得て、「伯学コラム」に転載させて頂きます。(文化交流委員会)★★★

アマゾンの風物詩26 –” ブラジルのパリ ” マナウスの盛衰史—

マナウスはブラジル最大の州の都である。ベレンと共に、アマゾン地方の経済、教育の中心地である。私の駄文を見て、かつてマナウスに住んでおられた伊藤昭男さんから、この地の食文化へのサウダーデを込めたコメントを頂いた。ベレンと同じようにマナウスは、アマゾンの玄関口である。私の場合、2回だけしかベレンを訪ねていないので、マンゴーの木がやたら多かったことと、大河に面する野外市ヴエール•オ•ペーゾ(Ver-o-Peso)での、雑踏のなかで売り子と客との間で取り交わせられるかまびすしい声声に活況を呈している印象を覚えたくらい。それ以外、パラー州とその州都ベレンについてはあまり知らない。

今回のメインテーマであるマナウスに焦点を絞って、話を進めよう。マナウスの歴史はポルトガルの植民地化を抜きにしては語れない。1669年、ポルトガルの植民地化を磐石のものにするために、アマゾン河に沿って小堡( fortim)が造られた。続いて1856年、マナオースと呼ばれるようになるLugar da Barraの集落が生まれた。マナオースなる名を冠せられたのは、そこにManaós族が居住していたからに他ならない。

そのマナオースは進展し、すでに言及したように、1890-1910年の間の天然ゴムの開発によって殷賑を極めて、現在のManaus に生まれ変わった。結果として、ゴムの経済サイクル(ciclo econômico de borraca)から得られた莫大な富は、別の機会に紹介するTeatro Amazonas、大通り、下水システムなどの建造に当てられた。

かくして、絶頂期にあったマナウスは、” ブラジルのパリ ” (A Paris brasileira)とまで言われるようになった。1899年、この国で初めて電車が開通したこともその一例だろう。

栄華をきわめたマナウスはしかしながら、1910年以降、他の国々との競合等ともあって斜陽化の道をたどり、貧困化していった。経済は停滞し落魄した状況から、再び活況を呈するようになつたのは、1966年に自由貿易地帯(Zona Franca)が設けられてからのことである。このことによって、日本を含め多くの外国の企業、多国籍企業が進出して、脚光を浴びることになった。

私も二度、そうした企業が集まるところを訪ねて、電化製品製造の企業が多いのに驚いた次第。企業誘致が進むにつれて、マナウスの人口も25万人から50万人に膨らんだ。1976年にはマナウス国際空港も開港し、マナウス港は14mに耐える金属製の水上プラットホームホームの構造になった。

アマゾンの風物詩27 –アマゾーナス劇場(Teatro Amazonas)—

 

アマゾーナス劇場を訪ね、その全容を公園から眺めると、壮大にしてゴージャスな建造物に驚きを禁じ得ないものがあります。入場券を買って中に促されると、絢爛豪華な内部の美しさに改めて圧倒されます。と同時に、これがゴム景気で造られた最たるアイコンであることを痛感させられます。言うまでもなく、São Sebastião 広場に1896年に建立され始めたTeatro Amazonas は、森林から採り出した木材以外に、他の全ての建築資材はヨーロッパからもたらされました。そのために大型の貨物船が使われたようです。ちなみに、大広間を支える鉄柱はスエーデンから持ち込まれ、大理石に模して彩色されているとのことです。

さて劇場の目玉は何と言っても、舞台と681ある客席を含む仕切り部屋かもしれません。Negro川とSolimões 川の風景を描いた、15mの木造の緞帳もその範疇に入れるべきでしよう。仕切り部屋は12,000の貴重な木材、ブラジルの木(pau-brasil)、ジヤカランダ(jacarandá)、オーク(carvalho)といったもので支えられているようです。貴賓席である上階の天井は、イタリアのDomenico D’Angelisの手になる遠近図法による絵が施されています。中央部に描かれている天使は、眺めている来観者にさも伴って動いているかのような印象を与えています。劇場の建築スタイルは折衷様式といわれますが、どちらかと言えばネオクラシック様式の影響が色濃いように感じられます。しかしながら、多くの点で建造物は独創性であふれています。

アマゾーナス劇場はこけら落としから5回改築されているそうですが、今もなお使われ続けている稀有な存在であることに、ただただ驚きを感じざるを得ません。

アマゾンの風物詩 28  -リンガ•ジェラール(língua geral)—

 

língua geralとは、ポルトガルの植民地化の最初の世紀に、イエズス会士たちが古トウピ語(tupi antigo)を主体に混成、体系化した言葉である。17世紀に全てのアマゾン地域で話されていたNheengatú語としても知られている。1850年、その言語の使用は禁じられたにもかかわらす、ネグロ川上流のインディオおよび布教目的のカトリック系の人たちは、使い続けた。

今日までlíngua geralは、コロンビアやベネズエラの部族を含めて、アマゾン地域で話されているのである。すでに自著やFacebookで詳述しているように、自らの民族語を捨象して、第二言語が多くの他の部族とのコミュニケーションの道具となることで、異なる集団の間の経済的な取引も容易になった。第二言語とはlíngua geralに他ならない。トウピ語はその基底をなしていること。しかも、国語化しているトウピ語由来の地名(tomônimo)は1万以上で、動植物相に至っては言を待たない。

*写真はWebから

アマゾンの風物詩29 –最大の牛祭のあるパリンチンス(Parintins que tem o maior Festival do Boi na região)—

 

Amazonas 州にありながら、マナウス港からずいぶん遠い、アマゾン河右岸のTupinambarana島にあるパリンチンス。国内でも有数の祭が開催される土地だけに、文化も祭に染っている印象があり、一年を通じて祭の余韻なり雰囲気が観察される。公共の建物の壁、広場の塀、bois-bumbásに想を得た手工業品などに描かれた絵、さらには、ラジオに流れる、牛祭のための音楽ともいうべきトアーダ(toada=地域住民の日常を単純なメロディーで歌ったもの)はほんの一例に過ぎない。この州最大の民間伝承に端を発するFestival do Boiに関する記述は次回以降に回して、パリンチンスについてもう少し述べてみよう。

とっくの昔、一度訪ねたきりなので記憶が薄れているが、パリンチンスの市の中心部を離れると、島の景観は、castanheira、canaranaのごとき亭々たる樹木が植生する、湖沼や狭い水路ある水牛を飼う農園に特徴づけられるようになる。言わずもがな、牧畜は地域経済を支える主要産業となっている。7月~12月に当たる乾季は、パリンチンスの周囲の自然美や川浜を訪ねるのには絶好のシーズンである。

アマゾンの風物詩30 –パリンチンスの民族の祭典の中核をなすボイ•ブンバー(boi-bumbá)—

 

今では国中に拡がりbumba meu boiの名称でも呼ばれる民族の祭典boi-bumbá。アマゾーナス州パリンチンス最大の、民族文化、芸術、音楽、宗教などを取り込んだ祭であることは疑いないが、そもそも元をただせばその起源は、18世紀に発現した北東部マラニョン州にあると言われている。北東部の地域経済にとって牛はきわめて重要な存在であり、象徴的な動物とみなされていたことから、民間伝承や伝説においても主要な対象となった。ゴム景気に湧くアマゾン地方へマラニョンの人たちが殺到した結果として、boi-bunbáは現地のインディオやアフリカの文化の影響を受けて、装いを新たに変容したboi-bumbá が誕生したとも言える。

一説によると、このboi-bumbáには守護神São João を崇拝することから、カトリシズムの影響も色濃いとみなされている。Parintins の文化スポーツセンター、すなわちBumbódromoの舞台 において、6月の最後の3日間、夜に繰り広げられる、Boi GarantidoとBoi Caprichosoの間の競演に言及する前に、次回は祭の要諦をなす、ブラジル国民の間では誰もが知っているbumba meu boiの伝説をご紹介したい。

*写真は、Amazônia, PubliFolha, p.155.から

アマゾンの風物詩30 –パリンチンスの牛祭の中核をなすbumba meu  boiの伝説–“” (2) 

bumba meu boiと言えば、とっさに牛の死と再生を巡っての伝説である、とブラジル人であれば想起するだろう。およその梗概は以下の通りである。

セルトンの牧場主に働く奴隷の身の夫婦がいた。妻のCatirinaが懐妊して無性に牛の舌を食べたがると、夫のpai Franciscoは妻を満足させようと、主人が可愛がりいたく気に入っていた最良の牛を殺すに至る。そして、舌を切り取って愛する伴侶に与えるのである。牧童は牛が盗まれ殺されたに気付き、主人に告げる。主人は怒り心頭に達して、二人を探し殺めようとする。が、結末はその殺された牛は生き返り、大団円を迎えるのである。牛が再生したことで牧場主はたいそう悦び、感謝の気持ちでfestaを催すことになる。めでたし、めでたし、なのである。

アマゾンの風物詩30 -bumbódromoで繰り拡がれる二つのチームによる 競演– (3)

1796年に発現されたTuinambrana島。その地で1965年に始まった北部最大の文化的マニフエステーシヨンであるboi-bumbá は今では、地域住民のみならず全国津々浦々からの観客を惹き付けてやまないものになっている。赤色で象徴される、Lindolfo Monteverdeが創設したとみなされているBoi Garantido と、「森の守り人」ともいわれ青色のBoi Caprichoso との、35000人収容の牛の頭を模したBumbódromo での演技は圧巻そのもののようだ。親友のYashiro さんはこの祭を実際に見られ、いたく感動されたようである。

最良のパフォーマンスを演じ、美しい物語性のあるテーマ(enredo)を吐露した方が勝者となる。どちらかのチームに与して応援する者も、尋常ではない。すなわち、応援するチームの色に自分の家を塗る始末。このことが結果として、共同体社会の祭そのものを盛り上げるものになっている。州法で6月の最後の週の28,29, 30,日の祭の間に演奏されるのは、単純なメロディーの歌曲のトアーダ(toada)である。その歌詞は原始林の音やさまざまな鳥の啼き声をアレンジして採り入れているのだそうだ。

前回も触れたように、双方のチームともに祭では当初、Pai Francisco とその妻Catirinaの伝説が語られる。祈祷師のお蔭で牛は生き返り、牢獄の入るはずのFrancisco は許されることになる。そうした伝説を述べた後、祭は佳境に達する。多様なテーマ、特にインディオの儀式、部族の踊り、河川近くに住むribeirinho たちの慣習など、地域文化に根差したものが演出される。この点で、カーニバルと似通っていると思えなくもないが、より地域性の色濃い祭典であることは、寸毫の疑いもない。

しかしながら、Boi Caprichoso とBoi Garantido の双方のチームが、São João Batista への請願によって祭が生まれたという伝説を信じていることを、どのように解釈したらよいのであろう。

アマゾンの風物詩31 –マラジヨ-島(Ilha de Marajó)– (1)

15人以上の学生さんや社会人の方を伴ったブラジルの旅が通常であったが、一度だけ女性3人を連れ立つての旅で、河川と海に位置する世界最大の島であるマラジヨー島を訪ねたことがある。トウピ語[Mbarayó]で「海の遮蔽物」(anteparo do mar)を意味するマラジヨー島(40,100平方キロ)は、九州(36,780平方)よりも大きく、当初はMarinatambalと呼ばれていたようだ。

アマゾン河とTocantins川が合流する、大西洋に面した河口岸に島は位置する。一度、大西洋岸に沿って北上する機内から眼下に拡がる、牧場が点在する広大な湿原をしばし眺めたが、その連続する光景に、島の大きさに驚きを禁じ得なかったものだ。多数の鳥、両生類、魚類の多さもさることながら、この島を象徴する動物と言えばやはり、水牛であるだろう。

たった2日だけのマラジヨー観光であったが、忘れ得ぬ想い出となった。水牛に乗ってのトレッキングしたことで、草原にいるダニに咬まれ、股間に猛烈なかゆみを感じたのには、ほとほと参った。これも今ではマラジヨーの想い出になっている。この島に水牛が持ち込まれた経緯については、自著の中で詳述している。ご参考までに。

アマゾンの風物詩31 –マラジヨアーラ陶器(Cerâmica Marajoara)– (2)

 

パラー州の州都ベレンからでも、Icoaraciの港[Terminal Hidroviário]からbalsaと呼ぶ船で3時間半から4時間かかるマラジヨー島。マナウスからだと、飛行機でベレンまででも3時間あまり要する。前の回で述べたように、マラジヨー島と言えば水牛を想起するが、この島を世界に知らしめたのは、陶器であろう。

マラジヨー島はアマゾン地方の文明の揺り篭とも言えなくもない。何故なら、マラジヨー芸術の精華ともみなし得る、先住民アラウケ族(arauque)の陶器がArari湖近く— 死者を埋葬する場所 —で19世紀初頭に発見されたからである。雨期の頃、陶器のかけらが牧場の水牛の頭蓋骨の下にあつたことによる偶然の発見らしい。ともあれ、特筆大書すべき点は、遺跡で見つかった事物から、マラジヨー島に階層化した社会が存在し、農業が営まれていたのが判明したこと。

インディオたちは、器、骨壺(urna funerária)、鈴、斧などの製陶技芸を通じて自らの世界を再生したのである。従って、陶器に描かれるデザインは、人間(formas antropomorfas)もしくは動物の形に似せたもの(formas zoomorfas)になっている。年老いた魔女、小人、猿のような若者、陸亀、ワニなどはその一例。

陶器を頑丈なものにするために先住民は多くのもの、例えば木皮、陸亀の甲羅、貝殻などを使っている。他方、染料は植物、鉱物起源のもので、赤色に染める場合はウルク(urucu)かカラジユル(carajuru=cipó-cruz。ノウゼンカツラ科{bignoniácea}のツル植物)を、黒色は木炭と煤煙(fuligem)以外に、チブサの果実である(jenipapo)もしくはアシユアン(axuã)[humilacea科の木]であった。ワニスはタマリンド(jutaí)のタールを利用していたようだ。

マラジヨー島の陶器は微妙な違いはあるものの、6つの時期に区分されるようであるが、もっとも重要なものはマラジヨアーラ(Marajoara)と呼ばれるもので、多色の美しさに定評があり、400年から1400年の間に発達したものらしい。今日この地で作られる陶器の大半はMarajoara に想を得ていることのようである。